十
言葉が理解できなかった訳ではない。聞き取ったフランス語に別の意味があるだろうか、いやベルナデットはふざけてみたのだと、瞬時に声ならない自身のうめきが頭の中を回った。
「一体何を言って……」
「突然で驚いたわよね」
ベルナデットの声色は落ち着いている。
「でもわたしたちはお別れした方がいい。
言ったでしょう? あなたはわたしの全て、世界の全て。
いずれあなたがわたしの法律で、道徳となる」
輝きに照らされ、まばゆさに心躍るととも、その影の濃さに慄かなければならない。
「あなたはわたしに汚れ仕事をしなくていいと言う。
つまりあなたは汚れ仕事をしている自覚がある。
わたしはあなたの重荷を共に背負いたいと願う。あなたが仕事にわたしを関わらせたくないと言われても、わたしはあなたの為に何かしないではいられない。
そうでなければ、あなたがプロイセン軍を辞めて、ウチで経理兼用心棒で働いてくれる? あなたを汚れ仕事から解放してあげられる。『ティユル』での稼ぎとアレティン商会での配当があれば、あなたは軍を辞めても暮らしていけるでしょう?
贅沢できるかは判らないけれど、きっと不自由はしないはず」
彼の女の言を理解できない訳ではない。しかし、単語の一つ一つが門の外でうろうろしている不審者そのもの、頭に入ってくるのを拒む。
「考えてもみなかった?」
「怒らせようとしているのか?」
真逆と、ベルナデットはぐいと俺に体重を掛けて、すぐに姿勢を正した。
「これならあなたが汚れ仕事をしなくてよくなるのに、わたしは巴里を離れなくて済むのに、喜んでくれないのね」
「喜ぶも何も……」
「あなたはわたしの為に軍人を辞められないし、仕事を捨てられない。それだけでしょう? わたしと違ってあなたは大切な事柄のどれも諦められない」
彼の女は俺がどうして軍人になろうとしたか知らない。軍人以外の生き方など微塵も思い付かないし、しようとも思わない。
「簡単に言わないでくれ。俺が職務を投げ出すような、骨のない男だと思うか?」
「いいえ」
「いくら意に染まぬ指令であっても軍は上意下達。個人的な好き嫌いで放棄したら、命令違反となる」
「ええ、それくらいわたしにも判る。
でも。明日から働きませんという訳じゃないもの。戦闘中じゃないんだから、いついつまでに退役したいと言うことくらいできるんじゃないの? それさえも許されないの?」
俺は押し黙った。彼の女の言い分に理はある。士官を辞めても、俺個人の資産やベルナデットの稼ぎがあるなら、食事のたびに財布の残金を心配する暮らしには決してならない。だが、それは彼の女の側の理屈、俺の通すべき筋目ではない。
「あなたの提案に乗って、自ら志した士官の身分を捨てろと?」
声に憤りを聞き取り、ベルナデットはわずかに怯んだ。しかし、己が言葉を撤回しようとはしなかった。
「わたしが『ティユル』にいるのは母と姉が働いているから自然そうなった。『自分で自分を養う』は、ラ・ヴァリエール家の基本。働くなら他所の洋裁店もあるし、工場やちょっとした小間物屋の店員、家政婦の働き口だってある。『テュユル』にいるのは、お針の仕事が好きだから。それに経験を積んで自分の裁量というものも見えるようになってきたから、お得意様もいらっしゃるから、ここで働く。
あなたと一緒にいる為に巴里を離れるなら、わたしはそれをなかったことにしなければならない」
同様にあなたはわたしの為にすべてを捨てられるのか、いいやできまい。ベルナデットは声に出しこそしなかったが、言外に告げている。




