九
面を伏せ、ベルナデットは彫像のよう固まった。
「マ・シェリ。どうか判ってくれ」
答えず、ベルナデットは肩と肩とをぶつけた。うつろに見えた青い瞳に再び意思の光が戻り、ふっと深い吐息が漏れた。
「モン・シェリ。あなたはわたしの世界の全てでも、わたしはあなたの世界の全てにはなれない」
開こうとする俺の唇にそっと人差し指を当て、彼の女は続けた。
「簡単なこと。あなたはわたしを守ろうとする。わたしだけでなく、わたしの家族もこの店も。そしてあなたはプロイセン王国に忠誠を誓った軍人さん。任務も故国も守らなければならない。あなたには守りたいものがたくさんある。
あなたにはわたしの力を必要としていない。むしろ余計な真似をしないで欲しい」
「あなたの気持ちは本当に有難い。しかし単に軍人の家族になるのと、その仕事に関わるのはまるきり違う」
「わたしはあなたの為に何かしないではいられない」
「あなたは故国を捨ててもいいと言ったが、実際そうなったら平気でいられるか? あなたが見知った事柄を俺が伯林に知らせたとして、気分よく過せるか?」
「判らない。でもきっと平気。
わたしはあなたの為に何かしないではいられないんですもの」
「俺の為にならもっとほかにあるだろう」
ふっと皮肉な笑いが口の端に現れた。
「あなたの為に家の中を清潔に整えて、食卓でにこにことして、寝室で共に休むこと?
あなたはフランス駐在中に見付けたフランス女を娶って帰国して一安心するでしょう。でもわたしは?
フランスとプロイセンが争いになろうとなるまいと、どちらにしてもわたしが伯林なり昴なりに移り住めばあの女はフランス人だと言われ続けるでしょう。異邦人とはそういうもの。もしフランスがプロイセンより優位な立場になれば、周りからあの女は間諜ではないかと悪口を言う人が出るでしょう。その逆だってあるかも知れない。あなたが言う汚れ仕事をしようとしまいとね」
軍人の思考の欠点か。人間の半分は女性であるのに、男性が世の中を動かしているからと、女性の立場を忘れてしまう。いい意味でも悪い意味でも女性は人の視線にさらされる。褒められもすれば貶されもする。法的、慣習的に女性の立場は男性に比して弱い。まして外交問題がこじれれば、異邦に暮らす者は周囲から悪感情の目を向けられる。同民族、同宗教ではない理由のみで制裁を加えられる例を歴史的にも知っているではないか。今まで俺が巴里で石を投げつけられなかった幸運に恵まれただけ。何故ベルナデットの身と心の安全に思い至らないでいたのか。
「そんな顔しないで。怖くないと言ったでしょう。あなたとならどこへ行ったって、わたしは仕合せに暮らせる」
「あなたとの愛情に目がくらんで、見えていないことがいかに多いか」
「気にしないで。何事にも始めてみて実感することが沢山あるでしょう?」
「男と女が共にありたいと願い、叶えようとすると、こんなにも多く思い煩う点があるとは気が付かなかった」
またベルナデットが俺に肩をぶつけた。
「あなたの愛情の免じて許してあげましょう。
だからあなたもわたしを許してちょうだいね」
ベルナデットが望むなら、何もかも許そうと心底思った。
彼の女は言った。
「わたしたちの仲を終わりにしましょう」
頭の上に大石が落ちてきたかのような衝撃を受けた。




