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君影草  作者: 惠美子
第四十六章 私のそばにいてほしい
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 恐れるものもなく、自分が何者にでもなれると夢見たのはいつの頃だったか。琥珀の中に閉じ込められた虫のようにはなりたくないと、生きる実感を求めて軍人となった。それがこの体たらく、漠とした不安と痛みに苛まれる。落ち着かぬ胸を押さえ、息を吸って、吐いた。

 あがいたところで、何ができよう。明日生きる為、安息日に相応しく、今日は一人何もせず部屋にいよう。

 焦るな、考えるな。思うのなら、希望とベルナデットとの仕合せを。マ・シェリと過した甘いひとときを、昨晩オデオン座で二人、現実(うつつ)を忘れて酔い痴れたサラ・ベルナールの黄金の声の響きを。暦がもうじきだと知らせてくれる冬の終わりと春の訪れを。悲観的な事柄よりも明るいことで頭を一杯にしよう。

 やっとのことで心の内が凪ぐ。

 暮れるまで何も考えずにいたい。

 ぼんやりと座ったまま無為でいられるだろうか。性分に合わないことは難しい。せめて気を紛らわす手立てでもなければ、またロクでもない思いに捕まえられる。本でも読もうか、母語でも、この国の言葉のものでもいい。俺の心を現実から逸らしてくれ。荒んだ気持ちを和ませてくれ。

 (プレヤデン)伯林(ベルリン)から持ってきた本には娯楽ものがなかった。フランス語の本であまり分厚くないもの、と購入していた本を手に取って読み始めた。第二章あたりで主人公の行動が気に入らなくて、止めた。コンスタンの『アドルフ』なんてどうして選んでしまったのか。確か『モンテ・クリスト伯』や『ダルタニャン物語』のように長くない、という理由で買ったデュマの本があったはずだ。痛快な冒険ものだか、人情ものだか。

 物入れから出したデュマの本は怪談だったが、もう気にしない。デュマなら怪奇譚でも落ち込む一方の話にはなるまい。怖くて不思議で、それでいて人の情を信じさせてくれる物語を時間を掛けて読み、太陽は西へと傾いた。

 程よい疲れと空腹を感じた。安心した。肺炎で弱り果てた時には食事をする気にもならなかったし、無理に口にしてかえって吐き戻しそうになったり、胃の辺りの重苦しさが続いたりと、辛かった。食べたいと欲するのなら、まだ生きる力がある。胃もたれしない程度に腹を満たし、床に就こう。明日はきっといい日になる。

 翌日は大使館に顔を出すと、ゴルツ大使が医師の診断を受ける予定だ、と教えられた。

「去年から口の中、舌に出来物があって治らず、痛みがあったそうだよ。そのことで医師に相談もしていたが、口内炎だと診断され、様子を見ていたが、いつまでも経っても治らない。ナポレオン3世も心配して、別の医師を手配してくれることになった」

 プロイセンの宰相閣下と違って、ゴルツ大使はフランス皇帝陛下の信頼されている。話のしやすい北ドイツとの交渉相手を失いたくない一心もあろう。

「病の判断とは難しいものですね」

 重責を担う大使が自身の体調を気遣う暇がなかったのは致し方ない。大使に面会を申し出ても断られるかと思ったが、許可が出た。大使の顔色は冴えない。以前にも増して声に力がなく、言葉の発し方が遅い。

「私が今度診察を受ける件は聞いたかね?」

「はい。聞きました。気が弱るとお体も弱りますから、どうかお心を強くお持ちください」

 既に周囲から色々と言われているだろうから、下手な励ましはやめておこう。

「口内炎と違うようだと人に相談すると、たかが口内炎が長引いているだけだ、蜂蜜を塗れ、いや塩だ、酢だと言われてばかりだった。これで専門医に診てもらえると、気持ちは落ち着いてはいる」

「左様でしたか」

 大使に喋らせるのは負担になると、ご機嫌伺いでしたので、と早々に面会を切り上げようとした。だが大使は話を続けた。

「貴官はオデオン座で『去り行く人』を観たかね?」

「はい、一昨日、従妹と観に行きました。噂にたがわぬ素晴らしい舞台でした」

 大使はうんうんと肯いた。

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