九
愛している、とベルナデットは言う。
俺も愛していると、返した。腕を回し、抱き合い、口付けを交わす。いつまでもこのままでいられないと判っているから、ますます離れ難くなる。厄介で、いとおしい。
「今ここで答えを出さなくてもいいでしょう? あなたの言う通り、一旦落ち着いて物事を考えなきゃ。ええ、仕上げなきゃいけない仕事も抱えていることだし、家に戻る」
「ああ、引き留めてしまったようだ」
額をこつんと合わせると、ベルナデットは立ち上がって帰り支度を始めた。
「昨日のお芝居の話をするってルイーズたちに約束していたのに、頭の中からすっかり飛んじゃった」
とベルナデットが苦笑した。
「大分人気があるようだから興行は長くなりそうだ。観に行く機会があるだろう」
「ああ、そうじゃないの。ルイーズが観に行きたいとかじゃなくて、男の人と観劇にいくとか、話題の舞台がどんなものだったのかとか、憧れに浸った気分になりたい、その程度なの。あんまり遊びに行ってばかりなのも良くないしね」
大人の世界を垣間見たい女の子の心境など俺には判りかねる。一流に触れる経験を持つのは大切だが、大人の男性を頼りにして安易に手に入れようとするのは危険だとベルナデットは言う。
「叔父さんも気前がいいばかりでは駄目ってこと」
可愛い姪のおねだりに肯いているだけでは、ルイーズの為にならないと言いたいらしい。
「自力で叶えるのは難しいけれど、達成できたら嬉しいし、何より誰かに頼るばっかりじゃあ、いつの間にかそれが弱みになって断るのが難しいことを要求されかねない」
伯母もマリー゠アンヌも結婚しないで娘を儲けたし、洋裁店を経営していて女性ならではの苦労があったのだろうと想像できる。都会に出てきて働く若い娘を誘惑する輩が幾らでもいるのが実情なのだし、高価な品や遊興にほいほいと釣られない自尊心や知性を身に着けるには子どものうちは難しい。
「叔母さんも苦労が多い」
「そうよ。ラ・ヴァリエールの女たちは男運がないと言われているから、独立心を忘れないの」
母親と異父姉をの姿を見て育ち、ベルナデットはそれを手本としてきた。叔母さんじゃないわ、お姉さん、と彼の女は訂正した。
「美しいお姉さん」
ええ、と返事をして彼の女は俺の首に腕を伸ばした。ふと眉を寄せた。
「あら、さっきは抱き合っていたから熱っぽさがあるのかと思ったけれど……。もしかして寝床が狭くて風邪を引いた?」
これまでの会話で激して熱でも上がったのか。言われてみれば、という気がする。
「いや、全く。風邪なんて引いていない。あなたといるとあなたの光に照らされて、自然と熱を帯びてしまうのかも知れない。気にしないでくれ」
「本当に?」
ベルナデットは俺の体調のこととなると、恐ろしく心配する。彼の女を安心させようと何度も大丈夫だと答えた。
送っていこうと申し出ると、寒いし、折角の日曜日はきちんと体を休めてくれと、ベルナデットは断った。幾らなんでもそれではみっともなさ過ぎる。言い合いになりかけ、やっと表通りまで、と折り合いを付けた。
「モン・シェリ、また会いましょう」
「ご機嫌よう、マ・シェリ」
外は寒風が吹き、身に染みた。寒さを堪えて急ぎ足で部屋に戻った。温かい部屋で縮こまった手足に血が通っていく感覚を覚えた。外套を脱ぎ捨てると、気怠さに倒れ込むように長椅子に掛けた。
何故これだけのことで疲れる? 自分の身をも支えられなくなったら、ベルナデットを守るどころではなくなる。己が力はどこに行った。強さを失ったら生きていけない。
鎮まっていたはずの咳が出て、胸が痛い。
病を癒す術がないならこの先どうなるのか。
ベルナデットの不在で急に胸に穴が穿たれたようだ。失われるのが恐ろしい存在が現れなければ何の悩みも知らないままでいられたはずだ。
己が病をいつまでも隠しおおせない。ベルナデットに告げるにしても、どう言葉を選べば彼の女の嘆きも負担も減らせよう。心は乱れた。




