十二
いや、ベルナデットの前では隠し事ができない。そのように自分ができてきているのだ。
もはやオデオン座の『去り行く人』での感興はどこかに消え失せてしまった。ここにあるのは男女の一組と、その場しのぎでは済まなくなった、一致しない意見をどう撚り合わせていったらいいかという戸惑いだ。
「あなたが気にする必要はないわ」
ベルナデットは微笑み、優しく語り掛ける声は胸に響く。
「あなたが異国の人なのは付き合いはじめから判っているのだし、付き合いが長くなれば関わり方や考え方だって少しずつ変わってくるのは当たり前。だから気にしないで。あなたや大使館の人たちが巴里の街や宮廷の人たちを調べて伯林に報告するのは、清掃人が散らかった道路を掃除したり、馬車の御者が人や荷物を運んで駄賃を払ってもらったりするのと同じで大切なお仕事。ええ、わたしが注文を受けて服を仕立てるのと同じこと。
異国人があちこち歩き回ったって、ここは欧羅巴の光の都、ちっとも不思議じゃない。いちいち不愉快になんて思っていられない」
一語一語が身に刺さる。
ここで彼の女に気にするな、俺の職務に一切関わるなと強く言ってしまえばいいのかも知れない。女性を立ち入らせたくないと怒気交じりに主張し続ければ、彼の女は従うだろう。受け入れてくれたとして、それは表面上のことに過ぎないかも知れない。また大きな失望を抱かせ、今度こそ俺に愛想を尽かす可能性もある。
女性の心情を慮ってこうも迷うとは! ベルナデットは構わず続けた。
「だからね、女性同伴の席にわたしと行ってこっそりと調査したとしてもわたしは何も言わない。絶対誰にも漏らさない。わたしを信じて。わたしが幾らお喋りだからって、他所で言っていいことと悪いことの区別はつく。沈黙だって守れる」
もう何も言わなくていい。言わないでくれ。
俺はベルナデットの手を取った。
「あなたがそこまで言う必要はない」
「オスカー、そんな深刻な顔しないで、もっと穏やかに。ね、笑って」
胸に痛みを感じつつ、俺は声を絞り出した。
「有難う、マ・シェリ。あなたの気持ちにどうしたら応えられるか判らないくらいだ」
「いいのよ、モン・シェリ」
ベルナデットは俺にもたれるように体を寄せてきた。自然、彼の女の肩に手を回し、抱き締める。伝わってくる彼の女の温もりは心地よい。このままいつまで彼の女の胸で安らっていられたらと望んでしまうのはまだ惑いが解けないからだ。
ふいに肺腑に刺すように痛んだ。心の動きの所為ではない。今、咳込みでもしたら……。
急に腕から力が抜けたと感じ取ったか、ベルナデットが体を離して覗き込んできた。
「どうかした?」
「いや、耳飾りが当たったかな?」
ベルナデットが耳に手をやり耳飾りを外して卓に置いた。ごめんねと言ってくるが、謝らなければならないのは俺の方だ。病のことは伏せたままでいたい。いつまで知らせずにいられるか心許ないが、心配させたくない。胸を撫で痛みを堪えた。
ベルナデットが俺を愛し、信じてくれる。それは疑いようのない真実だろう。だが、人の関わり合い方は彼の女の言うように、長い時間が経てば変わっていく。色褪せた花をいつまでも未練がましくかつては鮮やかだったはずと見詰め続けるのは人生の空費だ。大切な女性に悔いのある人生を送ってもらいたいなど、誰が願おう。
「わたしばっかり言いたいことを言っちゃったわね」
「いいや、言ってもらわなければ気が付かないことがある。あなたが何を思うか、知らないより知った方がいい」
そうよ、とベルナデットは顔を寄せた。俺は顔を動かし、唇を頬で受けた。いぶかし気な彼の女に俺は真面目くさって告げた。
「考え事をしたい。今晩は俺がここのソファで寝るから、あなたは向こうの寝台を使ってくれ」
「あら、わたしがここで寝るからいいわよ」
「寝台があるのに女性に使わせない訳にいかない」
ベルナデットが肩をすくめた。
「面倒なこと言わないで。別にいいじゃない。寝台で二人、背中を向けて兄妹みたいに休めばいいでしょ」
それで冷静に思索を巡らせたり、ぐっすり眠ったりできると提案しているのかな? これ以上言い合いを続けて心身ともに休めなくなるよりはましか。ベルナデットには楽しい夢路を辿ってもらおう。




