九
幕が上がると、舞台はルネサンス時代のイタリアのどこか、フィレンツェらしい。窓辺で物思いにふけるのは優雅で美しく、しかし年齢を重ねた様子の女性。シルヴィアは高級娼婦で、運命的な恋に身を焦がしたいと願いつつ、それが叶うだろうかと物寂しさにとらわれている。そこへギター、というよりリュートを手にした吟遊詩人の青年ザネットが爪弾き、歌いながら通りかかる。ザネットを演じるのが男装をしたサラ・ベルナールだ。長身でほっそりした体つきの彼の女は舞台上で恋の歌を奏でる青年に完全になりおおせている。若い詩人がオデオン座の大物女優のアガールの為に『去り行く人』のシルヴィアを造形して脚本を書いたと公演前の宣伝にあったが、ザネットもまたサラ・ベルナールの為に書かれたかのようだ。
歌われる詩情にシルヴィアは心を掻きたてられ、情熱がよみがるのを感じるが、シルヴィアの内なる喜びなど知らぬ吟遊詩人は夕闇の中に去り行く……。
観客は静かな余韻の切なさをシルヴィアと共にした。幕が下りて、我に返って拍手をした。
ブラーヴォ、と歓声を上げるのは一人二人ではない。再び舞台に現れ、お辞儀をする女優たちに心から喝采を送った。
興奮冷めやらぬままオデオン座を出て、ベルナデットは劇中の台詞が素晴らしいと、真似をしてみせた。帰宅したら家族やお針子たちに披露するからだけでなく、それだけ芝居が面白かったと反芻せずにはいられないのだろう。
「名優ベルナデット・ド・ラ・ヴァリエールを送ろう」
と申し出ると、ベルナデットは首を振った。
「泊めて。家族もそのつもりで戸締りしているわ」
あなたとお喋りしたいし、いいでしょう? と俺の顔を覗き込む。俺が断るはずがない、と彼の女は信じ切っている。口付けをなるべく避けよう、と決め、肯いた。
「夜通し喋るつもりかい?」
「ええ、多弁は怠惰かも知れないけど、恋愛よりも罪は軽いものじゃないかしら?」
「かも知れない」
ベルナデットは俺の腕に縋り、俺は彼の女の手を強く抱え込んだ。
眠くなったら本能には勝てないだの言い合いながら、寄宿先に戻った。外套やら手袋を外し、暖炉やストーブに火を入れれば、後はもう二人で向かい合うしかすることがない。
腰を下ろしたところで、ベルナデットは俺の頭の後ろに手を伸ばし、額と額を合わせて、俺が逃げられないように詰めてきた。
「わたし、お仕事のお呼ばれで同伴することがあるかも、と前に言われていたけれど、結局一度も頼まれていないわね?」
「ああ、さいわいそういった場に招待されていない」
「本当に?」
「本当だ」
「マダム・ギモンの言っていたマドモワゼル・レオンを同伴者に選んだりしていない?」
「していない」
ぐっと手に力を込めてきた。額が痛いが、彼の女も痛いはずだ。声に出そうかと思ったが、それより先に手が離れた。まだ目付きが穏やかでない。
「一度、ラ・パイーヴァとのオペラ観劇にフロイライン・レヴァンドフスカを同伴してオペラ見物に行った。あの時はゴルツ大使の思惑もあったし、あなたも劇場で俺たちを見掛けていただろう? 社交の場で同伴者を連れて行かなければならなかったのは、あの時と、巴里の女性を連れて来いと賭けの対象にされた時だけだ」
ベルナデットは明後日の方向に視線をさまよわせている。
「大使館にお勤めだと色々とお付き合いがあるだろうし、フランス人には内緒にしておかないといれない仕事もあるでしょうからねえ」
と大袈裟に溜息交じりに呟いた。理解のある様子を見せながら苛立ちを隠し切れない。
面倒くさいが、ここで邪険にすればもっと厄介になるだろう。どう話を持っていこうか、愛撫に持ち込んでうやむやにしても、翌朝しつこく蒸し返されたり、機嫌が悪いままだったりしたら、無駄な行為になる。
「で?」
ベルナデットはまた額を近付けた。
「マドモワゼル・レオンと知り合った時、わたしとも知り合ってた?」




