八
よろしく、と初対面の挨拶を終えた。
「マドモワゼルは巴里にお住まいなのかい?」
「ええ、そうなんです」
「さっきは人違いをして悪かったね」
いいえ、とベルナデットは微笑んでみせた。ジラルダンが相方のお喋りが続きそうと思ったか、口を挟んだ。
「品のよいお嬢さんじゃないか。困らせちゃいけない」
「そうね。若くて気持ちのよさそうな娘さんを見ていると、こちらも若やぐ心持ちになるもんだから、つい話し掛けてしまう」
エステル・ギモンは苦笑した。元高級娼婦とその元後援者の取り合わせだが、長年の付き合いでの気安さを感じさせる。
「若い人たちの邪魔をしちゃいけないね」
ジラルダンに連れられてエステル・ギモンは立ち去った。ほかにも知り合いがいるのだろうから、俺たちばかりに関わっていられない。すぐに背後で二人が声を交わすのが聞こえた。
ベルナデットは借金でも申し込まれたような顔をしている。やれやれ……。
「今のは新聞王のムシュウ・ド・ジラルダンで、ご婦人の方は……、あのエステル・ギモンね」
言い淀みにベルナデットの生真面目さが表れていた。
「知っているんだ」
「ムシュウ・ド・ジラルダンが逮捕された時に当局に掛け合って釈放させた交渉力を発揮した女性と有名ですもの」
「そりゃいつの話だい?」
「二十年位前、オルレアンの王様が退位した辺り。ほかにもあの女性には結構な武勇伝があるって聞いているわ。放蕩者の夫に悩む貴族女性の為に一肌脱いだとか、色々」
恬淡としているようで、そこはやはり色気よりも当意即妙な会話で客を喜ばせてきたと評判だった女性だ。逸話に事欠くまい。
「それで、お知り合いの軍人に娘さんがいるの?」
ベルナデットに嘘は吐けない。説明が長くなるから先に席に着こうと促した。
「始まりはシャン゠ゼリゼに邸宅を持つ女性の悪戯だ」
シャン゠ゼリゼ、邸宅、と口にすればラ・パイーヴァだと察するだろう。
「大使に連れられて紹介されたら、相手は巴里で女性と知り合いになってその女性を屋敷に連れて来い、これは賭けだと言ってきた。上司もいる場で断るにも断れなくて受け入れざるを得なかった。仕方なく街に行ってカフェで知り合ったのがレオンという女性だった。賭けの為に彼の女を一度だけ誘った。それ以降はこちらから連絡したことはない。
そのマドモワゼルの父親がフランス陸軍の軍人だった。
シャン゠ゼリゼの女性もマドモワゼルもあまり皇妃がお好きでないようで、話が合った。俺よりも女性同士で会っている方が多いらしい。シャン゠ゼリゼの女性は何かと世話を焼いている。それでマダム・ギモンにまで話が伝わったのだろう」
納得したのかしないのか、ベルナデットは考え込んでいるようだ。彼の女の気持ちからして楽しからざる話題だろうが、信じてもらうしかない。
「詳しい所はまた後で聞かせてもらうわ」
ベルナデットは自分に言い聞かせるように続けた。
「折角オデオン座に来たんですもの、楽しまなくちゃ」
「勿論だ」
俺は彼の女の手を握った。しかしベルナデットは俺の手をやさしく押し返し、真正面を向いた。
「幕が上がれば別世界に浸って、現実世界は忘れられるわ」
正直に話したのだから棘のある言い方をしないでもらいたいのだが、ここは我慢しよう。彼の女だって知りたくもない事柄を知って、美味しいはずのスープを煮たたせて濁らせてしまった気分だろう。
早く幕が上がらないだろうか。芝居が始まればきっと引き込まれて、夢の世界に連れて行ってくれる。都合の悪いことはどこかに行ってしまうはず。




