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君影草  作者: 惠美子
第四十四章 岐路
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 部屋に帰って一人、何もできないまま日が傾くまでぼんやりと過した。今後どうしようかと頭を悩ますばかりで少しも建設的な考えが浮かばない。シュタインベルガー大佐やゴルツ大使、伯林の参謀本部へ病の報告をしたら、即刻帰国を命じられるだろうか、後任が見付かるまでは巴里で働けと言われるだろうか。帰国命令が出たら従わなくてはならず、ベルナデットたちとお別れとなる。いつ再会できるか、楽観的な約束をできるものではなかろう。

 何も告げずに体調を騙し騙し巴里での活動を続けるにしても、これまで通りとはいかなくなる。にわかに動けなくなって部屋に引き返したことがあった。それと同じことが繰り返されれば、こちらが黙っていてもいつかは周りに気付かれる。

 いずれ避けられない時が来るのなら気付かれるまで何も言わず、今までと変わらぬように勤め、大切な人たちとのひとときを大切にしたい。

 いや、俺の病は伝染(うつ)ると言われた。それでは年長者の伯母やゴルツ大使、年若いルイーズに悪い影響を与えるかも知れない。ベルナデットは俺と何度も口付けを交わし、咳のしぶきが掛かるどころではなかった。もしベルナデットに病が伝染(うつ)すかも知れないとしたら?

 俺の誕生は父と母にさいわいをもたらさなかった。自分に生きている価値があるのか問い続けた子ども時代だった。ここでまた俺を愛してくれる女性を危険にさらすことに平静でいられようか。

 たとえベルナデットと対していなくても、同じ空の下、会おうと望めばすぐに会え、触れ合える近さに暮らすと思えばこそ、会えない日も心を落ち着けられた。この手は彼の女の肌の滑らかさ、体の柔らかさを、耳は彼の女の声を、目は彼の女の青い瞳の優しい眼差しを、晴れやかな微笑みを知っている。彼の女の明るさ、一途な気持ちが、俺の心の内を充たし、異郷での生活の支えとなってきた。彼の女を傷付けては、病を伝染(うつ)してはいけない。だが、ベルナデットと会えない環境になっては故郷に帰って心穏やかに過せようか。かといってベルナデットに(プレヤデン)や伯林に付いてきてくれと気軽に言えるものではない。

 思考は行ったり来たりの堂々巡り。何も決めらなかった。決められないまま、時間だけが過ぎた。

『ティユル』で降誕祭を祝った。皆と顔を合わせられるのが嬉しくて仕方なかった。マリー゠フランソワーズ伯母は包み込んでくれるような安らぎがあり、マリー゠アンヌはお澄ましのところがあるが年相応の華やぎがあって眺めていて楽しい。ルイーズはまた少し女らしい成長を見せた。お針子たちもそれぞれ元気そうだった。ベルナデットは今年もまた一緒に厳粛な祝いの席を共にできると有頂天で、張り切って準備をしてくれていた。鶏のロースト、栗のデザート、ジンジャーのクッキー、心尽くしの品々は美味で、心に染み入り、不覚にも涙が出そうだった。降誕祭や年始の晴着用にと仕事が立て込んでいたはずだし、こうして家での宴の準備だとて大変だっただろう。何もかもに彼の女の健気さが籠められている。

 ベルナデットは俺が二人きりになろうとしないのを不思議がりながら、それを問い詰めようとしなかった。宗教行事の最中(さなか)であるし、家族もお針子たちも浮かれていて、俺たちを冷かし気味に見ているのもあって遠慮していると、解釈しているのだと思う。物言いたげな視線が胸に刺さった。厨房の片付けを手伝い、やっと終わったところ、周りに誰もいなかった。ベルナデットが微笑みながら腕を伸ばし、顔を寄せてきた。軽く唇を合わせるだけにした。

「なんだか随分品行が良くなったのね?」

「聖なる日だからね」

 額と額を合わせて、おどけてみせた。ベルナデットの眼差しが変わった。

「もしかして風邪気味? 少し熱っぽい? 礼拝に付き合わず、ここでゆっくりしていたら方がいいんじゃないかしら?」

 俺の様子がずっと気になっていたに違いない。自惚れる気は無いが、彼の女は本当に俺に真剣な想いで俺を真っ直ぐに見てくれている。不甲斐なさを恥じつつ、俺は今できることをする。

「いいや、なんともない、平気だ。去年と同じく今年も教会に行くよ」

 まずは祈りを捧げよう。

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