九
「子どもの頃は焼き林檎に蜂蜜を垂らしたおやつが大好物で、風邪を引かなくなると教えられたのもあって、よく作ってもらって食べていました」
「子どもは工夫しないと生姜を口にしてくれませんものね。林檎がお手軽でいいですね」
「林檎の出回る時期ね。わたしも焼き林檎を食べたくなったわ」
気持ちが逸れたところで訊いてみた。
「お勤め先ではお話し相手をする時にお茶などご相伴に与れるのですか?」
「ええ、わたしが奥様にお茶を淹れるので、一緒にいただきます」
「その家のご主人は最初から席に? それとも途中から割り込んで来られる?」
「その日によります。
旦那様も奥様と同じ、家族と違う相手にお喋りをしたいみたいです」
しつこくするわけにいかないな。無理に退役軍人の名前を聞き出せなくてもいいとしよう。
「新鮮さが無くなるというか、飽きれば旦那様は交じらなくなると思います」
ラ・パイーヴァは訳知り顔で肯いた。
「本当、殿方は年若の女性に物を教えたがりですからね。女性の方が物知りだと気付くと悔しがるのよ。マドモワゼルもその退役軍人さんより詳しい事柄なんてあるんじゃないのかしら?」
どうでしょう、とレオン嬢は笑った。俺よりもよく知る内容となれば、と、言ってみた。
「イタリア半島のガリバルディについてはいささか情報がありますが、巴里でガリバルディが流行っていると聞かされても、私には何のことやらです」
あら、まだ赤い色の服が流行っていたかしら、とレオン嬢とラ・パイーヴァは顔を見合わせて、からかうように肩をすくめた。服装の流行りの色や意匠がどうかは、俺にも、多分レオン嬢の勤め先に退役軍人にも重要事ではない。彼の女たちの方がずっと詳しいはずだ。ガリバルディ率いる義勇兵たちが着る赤シャツに因んで、ガリバルディと名付けた赤い服を巴里娘がこぞって身に着けるなんて、俺には思い付きもしない。
「派手な分、すぐに冷めちゃったわね」
そういった心理もまた別の世界に思える。
長い時間を費やしての午餐会は終わった。
「楽しかったですわ。機会がありましたら、またこうしてお会いしたいです」
「ええ、是非とも」
きっとまた会うこともあるだろう。レオン嬢の雇い主が暇を持て余した隠居なのか、何らかの監視役か、今のところは判らない。だが共和主義の弁護士を応援すると公言する女性が退役軍人の家に出入りしているのだ。可笑しな取り合わせから、ほころびが生まれるかも知れない。
ラ・パイーヴァがにこやかに提案した。
「大尉さんとマドモワゼルにお声を掛けてまた集まりましょうか」
「そうですね、マダムにお任せいたします」
宮廷警察の元長官の愛人だった女性と会うのに直接連絡を取り合うよりも、人を介した方が無難だろう。
それにしても、垂れ目の皇妃から勘気を蒙って左遷された宮廷警察の長官はレオン嬢をどんなふうに扱っていたのだろうか。軍人である一家のあるじを亡くして途方に暮れる未亡人と娘たちの援助を申し出て、長女であるレオン嬢を愛人にして子どもまで儲けたのに、地方に飛ばされてそれっきり縁が切れてしまったか。レオン嬢の素直で真っ直ぐな様子に接していると、人の悪意にさらされずに過してきたのではと感じさせる。親もそうだし、元長官も人を信じる純真さを失わせずに育んできたのだろうと、こちら側が堕落を誘っているようで一種の気まずさがある。
元長官のイルヴォワに囲われたままでいてもやがては揉め事が出ただろうが、今は周囲が本人の知らぬところで彼の女を利用できるまいかと推し量っている。
レオン嬢は、皇妃の所為でイルヴォワが職を追われて以降の援助を打ち切られたと、帝政に少なからぬ不満を抱いた。おまけに今回の裁判で名を上げた、帝政を批判する弁護士に肩入れしようとしているのだから、フランスの軍や情報当局が知ったら流石に苦い顔をするだろう。
その上レオン嬢がプロイセンの有力貴族のヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵が後援する女性の屋敷にしげく出入りするとなったら……。
重い職務を担う者は、戯れに人と深いかかわりを持つべきではない。




