一
ささやかな期間だったが、ベルナデットたちと避暑地で過し、心身共に寛いだ。充実した時間から離れるのに後ろ髪引かれるが、楽園は永遠ではない。
「夏にドーヴィルに行けたなら、冬はニースね。そこならお兄さん、きっと風邪を引かないわ」
とルイーズが無邪気にも怖いことを言う。地中海で避寒の滞在ができるならそりゃ風邪を引かないだろう。ゲルマンの森の民にとって地中海は陽光溢れる憧れの南国だ。だがいくら鉄道が通っているといってもノルマンディーと地中海に面した南仏では巴里からの距離が違い過ぎる。
「ニースは年寄りになった時の楽しみに取っておくよ」
口の片端を上げながら答えた。連れて行ってもらうことばっかり考えていたら駄目よ、とマリー゠アンヌが娘をたしなめた。
「大きくなったら自分でお金を貯めて、それで贅沢するくらいの気持ちでいなきゃ。王子様が迎えに来てくれるのはおとぎ話だけの世界。それに王子様が選ぶのだってどこかのお姫様かお嬢様、庶民には関りなし」
厳しい言葉がどこまでルイーズに響いているか。
「大丈夫よ。ドーヴィルやニースにもお店を出して、季節ごとに出向けばいいんだから」
これには皆微笑みを浮かべた。
「夢みたいなことばかり」
口で言いながら、マリー゠アンヌは無謀というより気宇壮大と頼もしく感じたようだ。
「期待しているわよ」
と言い、ルイーズは任せてよと澄まして肯いた。いくつも店を持つ洋裁店の店主に本気でなろうと頭の中で設計図を思い描いているのだろう。若年者の希望はいつでも大きい。祖母や母の世の中を渡っていく上での辛い経験は聞かされているのかも知れないが、苦労は自身が社会に出なければ身に染みて実感できない。理想と現実の差に負けないだけの強さと知恵が備わるよう、俺なりに見守っていくしかない。
巴里に戻ればまた雑踏と喧騒と真夏の熱が現れる。八月も下旬に掛かろうとしているのだから秋の先触れもあろうかと思うのに、朝露の輝きは一瞬で消え去ってしまう。陽の照る時間が短くなってきているのがしっかりと感じ取れるのに、なんとも悔しい。涼しい場所での休暇で英気を養ったはずのこの身は都会の暑さに中てられ、すぐに体調を崩した。食欲が湧かないし、咀嚼と嚥下が労働のように感じられた。寝汗が酷いのは暑さの所為だ。外に出て数歩行った所で目の前が暗くなり、うずくまり、しばし動けなかった。通行人に声を掛けられ、何とか立ち上がり、部屋へと辿り着いた。
丁度女中が掃除に取り掛かろうとしていた。
「今日は掃除しなくて結構」
と告げて、部屋に入った。締め切った空間の熱気を追い払おうと覚束ない足取りで窓へ近付いた。女中が素早く窓に行き、代わりに開けてくれた。有難う、と心付けを渡そうとするが女中は手振りで止めた。
「ムシュウ、それは後でいただきましょう。とにかく床に就いてください。ここで倒れられたら、あたしとマダムじゃ運べませんから」
気を利かせた女中が窓を開けて回り、飲料水を差し入れてくれた。前みたいにお知り合いに知らせますかと尋ねられたが断った。ベルナデットには知られたくなかった。一日、二日大人しくしていれば治まる程度だ。面倒を掛けたからじゃないかとか移動が負担になったのではと大騒ぎされ、心配されるのが怖かった。
翌々日には気怠さが幾分去った。体を大事にしすぎては弱るばかり。職務を忘れる訳にはいかない。
大使館に赴くとゴルツ大使からからかわれた。
「休暇ではしゃぎ過ぎたのかね?」
「そうかも知れません。ノルマンディーに馴染み過ぎて、巴里の気温に油断していました」
「私のような年寄りならともかく、貴官のように若い者が暑さに参るなどなかろう」
「仰言るとおりです。気を付けます」
「身を厭えよ」
大使は夏負けしたのか、痩せたようだ。ご自身の加減がよくないのもかも知れない。それだけに大使の言葉は有難く響く。
「日中を避けて市中を探ります」
と冗談めかして答えた。それがいい、と大使は笑った。




