十
さて北海から西の地理はと、ブリテン島とヨーロッパ大陸の形を頭に描いた。
「ああ、向かいはイングランドだね」
「ドーヴァーの白い壁が向こうにあるの?」
ジブラルタルの柱はスペインの方だったったよなあ、とかつての(ヨーロッパ)世界の最果てなど連想しながらルイーズに答えた。
「ドーヴァーの白い壁が見えるとしたらもっと北東の対岸のカレーの方じゃないかな?
ここからだと港町のポーツマスだね」
「ふうん」
ルイーズは片手を額に当てて遠くを望む。白い崖が見えるだろうかと、皆して額に手をやり、ついつい目を凝らす。
「どうやら白い壁は見えないみたいね」
「カレーとドーヴァーとの海峡をイングランドの詩人さんが泳いで渡ったっていうわね。それくらいの距離だとよその国でも向こう岸が見えるのかしら?」
足を伸ばして座るベルナデットが呟くように言った。
「さあ、どうなんだろう。海軍の連中に会う機会があったら訊いてみるよ」
誰とはなしに「海」の語が出てくる詩や芝居の台詞を一人一人諳んじた。うろ覚えの詩句は止まない波音と一緒に耳に響く。一巡し、言葉の出番は終わった。自然の雄大さを前にしたら凡人の真似事の詩情は黙り込む。
海は広い。ここから臨む水平線はどれほど遠いのだろう。指し示す陸が視界になくても、海の向こうに希望を抱いて漕ぎ出した人々の勇敢さよ。
ベルナデットが視線を寄越した。
「何か冒険を考えている?」
「いいや、泳ぎは下手だ」
「初耳ね」
「渡河の訓練で泳げないと大変だと言われて水に浮かぶ練習はしたがね、あれを泳げると言えるか自信がない」
ベルナデットはまた驚いた、というふうに肩を動かした。
「士官学校って本当に色々なことをするのね」
「軍人に様々な想定で訓練をさせるのはどこの国でも同じだよ」
「厳しいのでしょうけど、色々な勉強ができて、多くの経験が得られるのね」
「ああ、戦場に実際に立つまでは単純に蛮勇を競っていた」
それさえなければね、とベルナデットは悲し気に顔を曇らせた。俺もつられて感傷的な気分になる。ランゲンザルツァ、ウンストルト河、シュミット、シュレーダー、忘れられない、忘れてはいけない戦いがあった。俺とベルナデットの口に出さない湿っぽさは異なる想いだ。
俺の表情から気が付いたのか、ベルナデットは明るく微笑んでみせた。
「仕事の話になっちゃうからやめやめ。
ルイーズみたいに波打ち際まで行ってみようかしら。水着を着て水浴するんじゃないから、ずぶ濡れにならないように注意しなくちゃ」
人目のある場所で靴を脱ぎ、腕やふくらはぎを剥き出しにする水着姿は躊躇するのが当然だ。かといって波を被って夏の薄手の服が体に張り付くのも困る。
「女性が水浴する為の小屋があるんじゃなかった?」
マリー゠アンヌが妹をからかうように言った。
真逆と、ベルナデットは口角を下げた。
「子どもじゃあるまいし、そこまで挑戦しないわよ」
一緒に行ってみない? と言ってきたので、ベルナデットと波の側まで恐る恐るといった体で近寄った。すぐに大きな波がやって来て、二人で飛びのき、バランスを崩しそうになるベルナデットを支えた。
「不思議ね」
「どんな不思議を感じた?」
「ここはフランスで、ここからは見えないけれど、海の向こう、北にある陸地はイングランド。線が引かれている訳でも立て看板がある訳でもないけど、違う国。
一応海で隔てられているから、違うって言われればそんなものかなって。陸地にも境目はないでしょう? 大昔は大河や高い山で遮られていればそこが境になっていたけど、だんだんと便利な乗り物ができて、人は山も川も、それに大海原も越えてどこまでも行ける。遠い場所で生まれ育ったわたしとあなたがこうして同じところに立っている。
わたしの国とあなたの国は違う。でもそんなことはどうでもいい」
心の中で同意するが、俺はそれを態度にも言葉にできない。




