九
宿の部屋で一息ついて服装を改める。あちらも旅装を解いてほっとしているだろう。ルイーズには悪いが、十代の娘に付き合ってすぐに散策する気にならない。きっとベルナデットたちも同じだ。一人で出歩いちゃいけませんよとマリー゠アンヌは言い聞かせているだろう。それなら男の人と一緒ならいいでしょうと、じきに部屋を見せてと扉を叩いてくるのが目に見える。残念ながらあまり寛ぎ過ぎてはいけない。一度上着を脱いで深呼吸と伸びをして、また上着を着た。
二十分ほどして、扉が叩かれたので開けると伯母とルイーズがいた。
「お転婆さんがじっとしていれないから、荷ほどきは娘たちに任せてわたしと来たのよ」
それでも晩餐に出て差し支えないぐらいには身なりを整えている。
「海の方が眺められるから下の広間に行きましょう」
「ではご婦人たちからのお誘いですから、お供しましょう」
マリー゠フランソワーズ伯母とルイーズに挟まれて、広間に出た。広間の大きな窓から見える景色は黄昏の残光で白く浮かび上がって見えた。紺色に染まりつつある大気、響くのは海の波音か。
「暗くなってきたし、涼し過ぎるようだから、外に出るのは明日にしよう」
俺の言葉に肯くも、ルイーズは我慢できないように窓際に立って拡がる世界を飽きずに眺めた。伯母は椅子に掛け、孫の姿と景色の両方を愛でた。
「ボー・ヌヴ、おばあちゃんには大変かと思ったけれど、来てみて良かったわ。案外旅してみるのも悪くないわね。ルイーズやあなたみたいにきびきび歩けないで済まないけれど、置いていかないでね。年寄りは知らない場所だと冒険心より、戸惑いが大きくなってしまう。
いつもと変わった場所でのんびりすると気持ちが生まれ変わるよう。嬉しいわ、有難う」
「いいえ、感謝しなくてはいけないのは俺の方です。家族で出掛けて寛ぐ喜びを与えてくれました」
明日以降の予定を話しているうち、ベルナデットとマリー゠アンヌが現れた。ベルナデットは水色を基調にしたすっきりとしたラインのドレス、マリー゠アンヌは淡い桃色に白を重ねたふんわりとしたスカートと上着で、それぞれブルジョワの令嬢とマダムと遜色ない。移動の疲れを拭い去り、化粧と着替えですっかり見違えた。
「ボン・ソワール、どちらの貴婦人かと気後れしそうだ」
「まあ、お上手」
そう、いつもとは違う環境なら気の持ちようも違ってくる。実に新鮮な気分で相手を見詰められる。
翌日、快晴とは言えないが、空を覆う雲間から日が差す、避暑地に相応しい天気だ。朝食の後、海の近くを散歩と決まった。
「砂浜に沿って板敷の遊歩道を設けてありますから、歩きやすいですよ。砂浜に降りられると砂でおみ足が汚れますし、靴も素材によっては傷が付きます。砂浜用のスリッパをお買い求めになるのをお勧めします」
宿の者からの説明を聞くのもそこそこ五人で海辺に向かった。板敷の遊歩道を歩き、砂浜に降りてみた。砂ばかりなのに驚き、足が砂に沈み、一歩一歩が重くなる。木立も建物も遮る物が一切ない砂浜とその向こうに拡がる大海原。川や湖のほとりとは全く異なり、草木はなく、石ころも転がっていない。海辺は風がなくても波がひっきりなし寄せて返し、時に大きくしぶきを上げて浜に打ち寄せる。
見渡す限りの大空と海。磯の香りというのだろうか、塩気のある、わずかに生臭さを含んだ風が吹く。
森の中の都にも花の都にもない眺めに、しばし何もかも忘れ、声も失い、釘付けだった。
大きな日傘を砂地に刺してテーブルを据えた場所貸しをしているので、その一角を借りる。
雲を融かし込んだような色の空と、果ての見えない暗く濃い色の海。天空を行く太陽や海からすれば、人間なんて砂粒と変わらぬちっぽけさ。卑小の存在らしく何もしない、何も考えず空と海を眺める無為の時間。それこそが貴重で、得難い贅沢だ。
ルイーズが濡れるのも構わず波打ち際まで近付き、大波に慌てて飛びのいて、戻ってきた。
「海の水ってしょっぱいのね!」
服の裾や袖が濡れ、帽子も波を受けたようだ。
「海の向こうはイングランドなんでしょう?」
突然の質問に世界地図を急いで思い出す。




