十
「大好き」
うっとりと体を預けてくるベルナデットの温もりと肌の柔らかさが布地越しに伝わってくる。鈴蘭のさわやかな香りが移っていて、鼻をくすぐる。こちらもうっとりとしてくるが、苦行でもある。ラ・パイーヴァたちの言う、後は推して知るべしで彼の女を離したくなくなる。
「仕事中の中座だよね?」
「ええ、そうね」
察したようにベルナデットは腕をほどいた。はしゃいだ気分はすぐになくならないわね、と悪戯な笑みを浮かべた。お互い理性が大切だ。
「今度の休みの予定を立てたら戻りましょうか? 従兄殿」
「そういたしましょう、従妹殿」
次の日曜日に待ち合わせ場所や時間を決めて、ベルナデットと店に顔を出した。
「あら、ゆっくりお話しできたの?」
「ええ、明後日、日曜日の約束を決めましたから、今日のところはお暇します」
「ええ、もう帰っちゃうの!」
ルイーズが素直な声を上げた。
「ムシュウはあなたに会いに来たんじゃないって判っているでしょう? まったくもう!」
とマリー゠アンヌがルイーズをたしなめた。お針子たちが笑ってルイーズに囁き掛ける。
「大丈夫です。あたしたちだってムシュウ・アレティンが来るのは楽しみにしているんです」
ルイーズはともかくお針子たちに俺はどう思われているのだろう? いい男は見ていて気分がいいものですものねえなんて言って笑っている。ベルナデットは何も言わず、ただ笑うだけだ。こちらも笑う振りだけする。
女性に囲まれるのは存外怖い。
「ご機嫌よう」
「また会いましょう」
賑やかな声に包まれて『ティユル』を出た。
思い返せば巴里に出てきてもうじき一年が経つ。去年は巴里の地理に慣れようとあちこちを慌ただしく歩き回ったし、すぐにロシア皇帝の来仏に合わせての行動があって忙しかった。花の都とも呼ばれる巴里の素晴らしき季節の景色を楽しむ暇などなかった。仕事も世相の動きも大切だ。だが去年と違って今年はベルナデットとその家族がいる。時に立ち止まり、手を取り合って季節の花々を眺め、年中行事の話題に興じる。何のはばかりがあろう。心落ち着く、俺の安息の場所。
鈴蘭、清々しい香りと葉陰に隠れてしまいそうな可憐な無垢の花、フェリシア伯母の思い出であり、今日、ベルナデットと交わした互いの幸福を願う真摯な気持ちの表れだ。
ベルナデットと共に人生を過せたらどんなにいいか。声に出して問い、生涯守ると誓いたい。いつしか花が散るように感情も色あせるかも知れない。しかし開花の一瞬を愛で心和ませるのが生活の一部であるように、相手へ寄せる想いは一時の迷いにしろ嘘ではない。刹那の積み重ねが永遠に刻まれる。
街を行くと鈴蘭とは違う花の香りがする。フランス語でリラと呼ぶ花か。草木の花も木々花も街を彩る。




