六
「二人で出掛けられなくてもいい。長いお休みを取ってニースやイタリアで過すべきだわ」
いや、折角の巴里での春の到来。今からの季節に避寒地に赴く必要はない。
「え? 地中海沿いなんてここから距離がどれくらいあるか判っているのか? 移動するだけでどれくらい掛かると思っている?」
だって、とベルナデットは俺の言い分など耳に入っていないようだ。
「咳が長引いて、なんだかすぐに息が切れているようで、心配なのよ」
こうなると女性は理屈が通じなくなる。
「今年になってあなたが元気な姿を見た? あなたが寝床から動けなくなって、わたしがどんなにつらかったか……」
熱を出して寝込んでからの様子を、覚えている限り、事細かに言い始める。
いやいや、咳は一時期治まった。肺炎が完治した後、油断して風邪を引いたらまた呼吸器が臆病に飛び跳ねるようになっただけだ。寒さが去るのと同じくして体調も復するだろう。体力だって徐々に取り戻していける。俺を足腰の自由の利かなくなった年寄りか、病弱な子どものように扱ってくれるな。
一通り口に出してもらえば落ち着くかと思ったが、沈んだ表情は消えない。俺が避寒地で療養するとうなずくまで、説得する気か。世話好きでやさしいのもここまで来ると煩わしい。洟たれ小僧の養育係じゃないんだ。待っている間に咳はすっかり落ち着いた。
「マ・シェリ、あまり俺を困らせないでくれ」
「あなたはわたしを困らせているわ」
即座に言い返してきた。
「こんなに咳が長引いたら誰だって本当に風邪なのか心配するのは当たり前じゃない」
「咳で苦しんでいるのはあなたではなく、俺自身だ。俺が体調を整えようとしているのを横からあれこれと指図しないでくれ」
強く言えば引き下がるかと思えば、ベルナデットは萎れるどころか眉を動かし、俺を睨んだ。
「ひどい人! わたしをなんだと思っているの。わたしはあなたにとって何?」
「マ・シェリだ」
「そうよ。モン・シェリ、あなたを思ってつい口出ししたくなるのは悪いことなの?
ああ、こんな思いをするくらいなららあなたを好きにならなければよかった。あなたが熱を出して寝込んだからといって駆けつけて、看病した自分が莫迦みたい」
ああ、面倒くさい。なんだってこう女性は変な理屈を作り上げてくるんだろう。彼の女もやはり女であるに違いない。咳をする時とは違う荒れ方が胸の奥底にある。
とはいってもベルナデットは俺が好きだからこそ干渉せずにいられないのだろう。苛立ちを感じようとも俺は彼の女に背を向けられない。彼の女を失って平静でいられる自信がない。
「莫迦は俺だ。判っている」
はっとして、やっと気付いたようにベルナデットは口元に手を当てた。
「言い過ぎたわね、ごめんなさい」
「いや、あなたを不安にさせる俺が悪い」
「うるさい女だと怒ったんでしょ?」
誤魔化すのは彼の女も俺も好かない。
「少しね」
ベルナデットは肩を落とし、小さく息を吐いた。頬に涙が伝う。慌てて俺はポケットを探った。
「泣くほどのことじゃないだろう。俺が悪いと言っている。あなたは心配せずに見守ってくれていればいいんだ」
俺の差し出すハンカチを無視して、ベルナデットは自分のハンカチで涙を拭う。
「勝手に涙が出てきたのだからあなたは気にしないでちょうだい。ほっといて」
涙はあとからあとから零れ出る。
「あなたなんか知らない!」
幾らでも罵ってくれ。俺がロクでもない人間であるのは自分がよく知っている。
「あなたを泣かせる俺は罪深い。判っている。
だが、俺を大金持ちだと勘違いしないでくれよ。地中海の観光地で寒い時期に日向ぼっこして暮らせる身分だったら、大使館の駐在武官をしていない」
ベルナデットは答えず鼻をかんだ。鼻まで詰まってようやく泣き飽きたか。公園の真っただ中なので、ちらちらとこちらを窺う人目があるのがうっとうしい。
「ああもう! こんな所で泣き出して、わたしったらみっともないったら!」
「済まない」
ベルナデットが何か言い掛けるのを止める。
「あなたが俺を心配して世話を焼こうとする気持ちは嬉しい。本当に有難う。
俺だってなかなか良くならないと焦りがある。あなたといるのが最大の療養で、気分転換だと思っている。だから一緒にのんびりと休日を過そう」
やけに塩気のある口付けをした。




