四
俺はエリザベートを初めて女として意識して見た。男は女を見るもの、女は男に見られるだけのもの、と思い込んでいた。しかし、女も男を見ている。男の視線を引きつけ、そのことで挑発する。
その夜、俺はエリザベートによって、女が慎ましやかに振る舞いながら、その実男と同じように異性に対して欲望を抱き、しなやかな体が快楽を求めるのにいかに貪欲であるかを知った。エリザベートは俺を自らの悦びへ誘った。互いに深く結び付き、しかし、互いを束縛していなかった。
明け方、目覚めるとエリザベートが傍らにいなかった。まだエリザベートの体温を楽しみたかった。寝ぼけ眼で彼の女を探した。
エリザベートは鏡に向かって身支度をしていた。声を掛けようとして、息が詰まりそうになった。なんと昏い目。明るく快活な侍女でも、年下の男を誘う女でもない、生活に倦んだ三十女の顔。
俺がエリザベートを抱いたからといって、全てを知ったことにはならない。
誰の目も意識しない、素のままのエリザベート。
身繕いを終えたエリザベートが寝台の俺に視線を向けた。
「お目覚めでございましたか。お早うございます、アレティン様」
エリザベートはにっこりと微笑んだ。いつもの顔だ。
「ご機嫌よう」
俺は上半身を起こして腕を伸ばした。エリザベートは戸惑いつつ、俺の手に手を重ねた。
「もう戻ってしまうの?」
「はい」
「リザは私が好きか?」
エリザベートは驚いたように目を見張った。なんだかかなしい姿。だが強い自制でエリザベートはそれを打ち消し、伯母のように年少者をたしなめる表情を見せた。
「勿論、好きですわ」
何か言わなければいけないと思いつつ、言葉は喉に貼りついたように出てこなかった。沈黙のまま視線だけが絡み合った。
エリザベートは思いを振り切るように手を離した。
「さ、もうおいとまします。
まだ早うございますから、アレティン様はいま少しお休みになっていてください。朝食の時刻までにディナスが起こしにまいりますわ」
「ああ、そうするよ」
俺が扉を開けてやったら、今度こそエリザベートは何と言うだろう。だが俺は動かなかった。彼の女は物音をさせないようにそっと部屋を出ていった。
少しも眠くなかったが、横になり、目を閉じた。
エリザベートの言う好きは対等の存在のとしての愛情ではない。俺はいつまでも使用人たちには可哀想な子供。その可哀想な子供が見てくれよく育って大人になろうという時に、こうやって男女のことを教えてくれる。
恋人や友人になってくれなんてもう願わない。
女は真の愛情が無くても男と寝ることができる。エリザベートは役目を終えればそそくさと出ていった。
俺はエリザベートを愛しているのか?
いいや。愛。言葉は知っていても、それがどんな感情なのか判らない。判っているのかも知れないが、はっきりとこう、と言い切るだけの実感がない。
俺はエリザベートを愛していない。
俺もまた愛してもいない異性を抱いたのだ。
朝食に呼ばれて、伯母と顔を合わせた。
いつもと変わらぬ伯母に、こちらも普段の顔つきで挨拶し、席に着いた。
さして会話がないままに朝食は進み、食後、伯母にはお茶、俺にはコーヒーが運ばれた。
お茶を飲み、カップを置くと、伯母は言った。
「エリザベートを困らせてはいけませんよ」
「は?」
「エリザベートは頭のいい娘です。理ばかりだけでなく、情も厚いのです」
エリザベートは全てを伯母に報告しているらしい。
「ですからエリザベートに自分が好きかと訊いてはいけません。
互いに辛くて気まずい想いをすることになります」
「お言葉ですが、誰が私の寝室にエリザベートを寄越したのです」
フェリシア伯母は眉根を寄せた。俺の返答が気に障ったのだろう。
「それを命じたのはわたしです」
「リンデンバウム家に来た時は、エリザベートを私の部屋に呼んでもよろしいですか」
「エリザベートは貴方のもてあそびものではありませんよ」
「大事な侍女にもてあそびものになるような真似をさせたのは貴女でしょう、伯爵様」
伯母の空色の瞳が微妙な揺らぎを写した。
「貴方にきつい物言いをするつもりはありませんでした。ただエリザベートは貴方の妻になれないと判っていますし、愛人や情婦に甘んじるには家柄が許しません。エリザベートだって騎士の家柄の出なのですよ。
貴方だって判っているでしょう」
「判らないとは申しません」
リザのかなしい目。そのかなしさはリザだって知っていたはずだ。全ては仮初。我が手を、指の間を、すり抜けていく。
「手に取って、口にするまではただ甘い果実と思っていました。でも甘いだけでなく、苦く虚しくもあります。何故なのか、エリザベートと求められるのかと思いました」
「少し安心しました」
伯母は表情を和らげていた。
「貴方がエリザベートに対して単なる好奇心や暴力的な支配欲を抱いているのではと心配したのですが、虚しさに気付いているのなら、女性への心遣いを忘れたりしないでしょう」
「少しだけなのですか?」
「わたしには男の子の心情は判りませんからね」
伯母は果実の甘さを、虚しさを知っているのだろうか。未婚で病身の伯母が知っているのかどうか想像ができない。
「私には女性の心情が判りません。
伯母様は好奇心にとらわれたことがおありですか」
エリザベートの話題を出した時から伯母は俺の言葉を受け止め、避けたり伏せたりしないと決めていたらしい。動じることなく答えた。
「ありますよ。貴方ぐらいの年頃は特にね。
人間は聖と俗の双方に心惹かれるもの。わたしはこのとおり独り者だし、体が丈夫ではない。十代の時、自分の人生は巫女のように終わるのか、それとも誰彼かまわず男に身を任せる生き方をしてみようかと」
「特定の男性は想定しなかったのですか」
「この人ただ一人、という方はいなかったわ」
伯母の顔から心が読み取れない。俺は伯母がディナスをどう思っているか知りたかった。伯母はディナスの気持ちを知り、どうしようかと迷いはしなかったのか。
伯母は悠然としており、具体的に尋ねるにはどのような言葉選んだらよいか時間がかかる。遠回しに訊くより直接ディナスの名を出してしまえばいいだろうか。
「本当に今まで、伯母様のおめがねにかなう男性はいなかったのですか、その、貴族が相手と限らずに」
伯母は俺を探るように見詰め、やがて目を伏せた。
「貴方の言いたいことは判っています、多分……。」
伯母は面を上げ、問うた。
「オスカー、身分を超えるものがあると思いますか?」
「質問の意味が判りません」
「あるのかも知れません。かつてあると信じて行動を起こした男性がいました。貴方の伯父様です。
わたしは兄を信じていました。兄以上に強い信念を持って自らの思想に殉じた人を知りません。でも兄は志半ばで命を落としました。秩序は崩せないものかと思います。そんな悲しみを味わいながら、兄以上の男性でなければ愛せないだろうという気持ちがあります。
そして、どんなに愛されても、その人を愛せないこともあるのです」
伯母の厳しさと誇りの高さを今更ながら知ったような気がした。伯母もまた、父親から拒絶された子供だった。俺と同じく孤独の中、誰をも愛さず生きていくのだろう。
伯母が話を続けようとすると、ノックの音がした。伯母が促すと執事が入ってきて、伯母の耳元で何事かささやいた。
「まあ」
と伯母は驚いた。
「それで彼の女は応接室に?」
「はい、お待ちいただいております」
伯母は申し訳なさそうに俺に向き直った。
「お客様ですか」
「ええ」
「こんな早くからおいでになるのですから、よほど親しい方なのですね」
伯母は可笑しそうだった。
「仲良くしているのは事実ですけど、彼の女は礼儀を弁えなければと頭に浮かばないくらい若いのよ」
「性格が若い?」
「いえ、十七歳なの。性格が子供のままなのは貴方の言うとおりかしらね。きっと昨日の夜か、朝食の時に家族と喧嘩したのでしょう」
伯母がナプキンを卓上に置いて、どうしようかと考えていると、何者かが食堂に飛び込んできた。
「フェリシア様! 案内も請わず押しかけてきて申し訳ございません。わたくしいてもたってもいられなくって!」
今にも泣き出しそうな様子の若い女だ。
突然食堂に飛び込んできた不作法を咎めるのも、女性だけを立たせず起立しなればならない儀礼も忘れて、伯母も俺も呆気に取られた。若いといっても伯母の話どおりなら俺より一歳上。黒のレースの襟飾りの付いたドレスに黒の面紗を付けて、まるで喪中の未亡人のようで、不作法と服装の重々しさが不釣り合いだ。面紗の下にきっちりとまとめられた金髪が隠されている。
若い女は俺に気付いて、バツの悪そうに手で顔を覆った。
「お客様がおいでだったのですね。わたくしったら不躾な真似をして申し訳ございません」
慌てて俺は立ち上がった。
伯母は場を取り繕うように笑みを浮かべた。
「ご機嫌よう、フロイライン・ハーゼルブルグ。紹介しましょう、わたしの甥のオスカー・フォン・アレティンです。騎士で、今秋士官学校に入るのです」
伯母は続けた。
「オスカー、この方はハーゼルブルグ子爵の三女で、アグラーヤ・フォン・ハーゼルブルグさんです」
俺と、その子爵令嬢はぎこちなく初対面の挨拶を交わした。
伯母は何事もなかったかのように席を立った。
「朝食が終わったことですし、場所を変えましょう。わたしは着替えてきますので、ホフマン、書斎にお茶を運んできて頂戴。それからエリザベートに、部屋に来るように伝えておいて。
オスカー、フロイライン・ハーゼルブルグを書斎にご案内して、わたしが来るまでお相手をしていてください」
はいとしか返事のしようがなく、うなずくと伯母は執事に扉を開けさせて食堂を出ていった。俺は子爵令嬢に歩み寄り、彼の女の手を取るために腕を差し出した。だが子爵令嬢は俺の顔をジロジロと見詰めるだけで手を出そうとしなかった。初対面の人間に醜態を見られて動転しているためか、単なる人見知りか、それとも傲慢のためか、とっさに判断できなかった。
伯母に敬意を払っても、俺には無視を決め込む貴族連中は大勢いる。大方この貴族の令嬢も爵位のない騎士は視界に入ってこない存在で、たまさか目に留めても、人語を解する猫の一種くらいにしか思っていないのだろう。
俺は不機嫌を顔色と口調に出ないように気を付けながら、言った。
「私に手を引かれるのがお嫌なら、使用人のように先に立ってご案内します」
「あ、いえ、そういう訳ではないのです」
子爵令嬢が並ぼうとするのを知らぬ振りをして、俺は扉を開けた。令嬢は申し訳なさそうにチョコチョコとした歩みで廊下へ出た。俺は扉を閉めると、先に立って歩きはじめた。
「待って!」
と、子爵令嬢は声を上げた。
「ごめんなさい、お詫びしたしますわ。どうか怒らないでください。それにそんなに速く進まれては、ついて歩けませんわ」
俺は足を止め、令嬢を待った。俺の差し出す左腕に令嬢は右手を乗せた。
「どうお声を掛けたらよろしいのか迷ってしまった所為で、あなたに不快な思いをさせてしまいました。ごめんなさい」
「いえ、私も短気でございました。謝ります」
子供の喧嘩かよ。
「噂に高いリンデンバウム女伯爵の甥御さまと折角お会いできましたのに、わたくしときたらみっともない顔をしているのですもの、つい恥ずかしくて……」
子爵令嬢と視線がぶつかった。面紗の下の肌は赤く染まって見えた。
「噂とは……?」
「とてもハンサムな騎士さま」
「からかわないでください」
「からかってなどおりませんわ」
自分の肌も令嬢と同じように赤くなっているのに違いなかった。
書斎に着き、令嬢と中に入った。長椅子に掛けさせ、俺は窓際に立った。
「フロイライン・ハーゼルブルグは私の顔をとくとご覧になって、噂の程を確かめられてご満足ですか」
「幾分かは。貴方とお会いできたのは予想外の出来事でしたわ。
でも、訪問の目的は別にございます」
「何かお悩みがおありなのですね」
はい、と子爵令嬢はうなずいた。
「わたくしは我が儘ですから、ゆうべ家族と喧嘩になってちっとも眠れず、朝になったらすぐに家を飛び出してきたんです。
変な格好をしているとお思いになったでしょう? 泣いて顔が腫れているんです」
面紗は上手に令嬢の顔を隠している。
「意に染まぬご縁談でも?」
令嬢は俺の言葉に笑ったようだ。
「そのようなことでフェリシア様のところに参りませんわ」
言われてみればもっともだ、と妙に納得した。
子爵令嬢は朝食の場に飛び込んできた理由を説明してしまうと、自身を語るのをやめてしまった。悩みを打ち明ける相手は俺ではない。
「フロイライン・ハーゼルブルグはどちらで伯母と?」
と尋ねると、詩の朗読会で、と答えがきた。社交の場は様々あるものだ。
未婚の女性が侍女も付けずに現れて、二人きりでいなければならないとは非常に居心地が悪い。話題を思い付かないし、うかつに側にも寄れない。
初対面の女性がいるというのに、ゆうべの出来事からエリザベートの肢体が頭から離れない。儀礼上だけでなく、離れて外を眺めているしか出来ない状態だ。伯母でも、ここの執事のホフマンでもいいから、早く書斎に来てくれないものか。
子爵令嬢のお陰で伯母との話が中断されてしまったこともあり、俺は戸惑っていた。