七
「あ、ああ」
執事のディナスもリザも、軍の仲間達も生き延びるべきだ。だが、今は目の前の二人に対して語っているのだ。そこまでアンドレーアスが怒ったようになるとは思ってもみなかった。
「だいたいあんたはいつも一人でなんでもできると思い込んでいるから、周りが判らなくなっている。生き延びなければならないのはあんた自身でもあるんだ。あんたは知らないんだ……」
「ディナスさん」
アグラーヤが止めた。
「これから戦いに出るかも知れない方にこれ以上ご負担になるようなことは言うべきではありませんわ」
「ハーゼルブルグ先生はそう言いますが……」
アンドレーアスはアグラーヤの目を見てから、一呼吸置いた。
「オスカー、あんたに何かあったら悲しむ人間が少なからずいると覚えておいてくれ」
「ええ、どうかお心に留めていてください」
「判った」
二人から言われたら、肯くしかない。そう、俺はいつも周囲の者への気遣いが足りないと言われてきている。己を律することに厳しく、他者にもそれを求めすぎると。戦いの中に身を置く人間として留意するつもりだが、自分を変えられるかは自信がない。
ただ俺の欠点を指摘してくれる存在は有難い。
「二人に感謝する」
俺の言葉にアンドレーアスもアグラーヤも安心したようだった。
「忙しいところ時間を取らせて済まなかった」
「なんだ、もう行くのか?」
「ローンフェルト氏を待たせているし、あんたも仕事があるのだろう」
「そうだな、ここではもてなしも何もできないから悪いな」
別れの挨拶にもう一度、アンドレーアスを抱き締めた。アグラーヤは右手を差し出した。甲ではなく、親指の方を上にして。一瞬迷ったが、接吻ではなく、握手をと言いたいのだろう。アグラーヤの手を握った。
「左様なら。オスカーに幸運を」
「ご機嫌よろしう、ご無事でいてください。」
「ああ、然らばだ。道中お気を付けて」
扉を開けると、廊下で様子を窺っている奴らがいた。馬の機嫌を見ていてくれと頼んだのに、暇な奴らだ。
「同僚たちです。気にしないで」
「はあ、アレティン中尉の幼馴染です。失礼します」
「お邪魔いたしました」
アンドレーアスは目を丸くして戸惑い気味に、アグラーヤは少し可笑しそうにしながら、廊下に出た。もうかれらは帰るのだからと、紹介らしい紹介もせず、二人を送っていった。
兵舎に戻ったら、質問が飛んできた。
「あのご婦人がアレティンの宮廷恋愛の相手か?」
「男の方は旦那じゃないようだが、誰なんだい?」
こうなると噂好きの女性と変わらないじゃないか。どこまで説明してやれば静かになるのだろう。
「男の方は乳兄弟だ。あの女性は乳兄弟と仕事の上で付き合いのある女性だ。余計な詮索をしないでくれ」
嘘は言っていない。
「乳兄弟とは、やはり御曹司なんだな」
シュミットか。
「俺は母を早くに亡くしたが、父が再婚しなかった。それで養育係がいた。それだけだ」
「はん、あの女性、顔立ちはまあまあだが、年だ」
「貴様の好みの年頃は知らんが、彼の女は三十前だ」
「あの男の妻でも婚約者でもないんだろ。老嬢ってわけだ」
確かに貴族やブルジョワの女性としては独身でいるのが珍しい年齢だ。しかし俺にだけでなく、アグラーヤにまであれこれ言う気か。周りが声を上げた。
「シュミット、言い過ぎだ」
「まだ懲りてないのか」
シュミットは鼻で笑った。
「懲りたさ。アレティン中尉の想い人が現れたと皆が言うから、顔を拝みに来て、素直に感想を述べたんだ。他意はない。想い人じゃないんだからいいだろう?」
「好きに言っていろ」
腹立ち紛れでもないが、つい口から出た。シュミットは眉を寄せた。だが、もう何も言わずに立ち去った。ブルックやヨハンセンが、気にするなと言い、なおも本当のところはどうなんだと続けてきた。古い友人なんだと、繰り返した。それよりもアグネスはどうしたと、茶化してしまう。
意地の悪い奴だと口にしながら、ブルックは近況を報告してくれる。それで進展しているといえるのだか。しかし、当人は嬉しそうにしている。
六月にハノーファー国王の首都ハノーファー市の北、ランゲンハーゲンで合同演習が行われる準備の中での一時だった。この後、俺たち、カレンブルク南部軍団は予想だにしない事態にさらされる。全ては神のみぞ知る。
老嬢は死語です。当時の女性の結婚年齢や女性に参政権がなく、財産の私有権も限定的であった時代の男性側の視点の言葉です。ご了承ください。
勿論、同時代生涯独身を通したナイチンゲールのような女性も存在したのです。