十一
結局、食卓の上に並べられたこの世の中の美食の見本を口にするよりも、注がれる美酒の盃と接吻を繰り返す方に熱心になってしまった。漂う紫煙と、渇きと潤い、どちらももたらす酒の所為か、咳込んだ。
「咳で肋骨を折った人がいるから気を付けたまえ」
軽口を飛ばすご仁に苦笑しながら応えつつ、また咳が続いた。胸の中を強く揺さぶられているのと同然だ。こうしょっちゅう咳ばかりしていると、肋骨を折るのも当たり前のような気がしてきた。通常の呼吸でこんなに胸や喉を大きく動かさない。急に激しい運動をした翌日の四肢の痛みに似たものが、胸の辺りに兆すのを感じる。
「明日は早めに教会に行って、懺悔をして額に灰を塗ってもらえと警告されているみたいです」
やっと咳が治まって、喉元を撫でた。
「冷えましたか?」
「いえいえ、そんなことはありません。充分暖かいです」
これ以上薪や石炭を焚かれたら息が詰まる。歓談という名の駄弁は終わりそうもない。切りのよい所で抜け出すが身の為だ。また寝込むのは御免被りたい。真面目に精進の日々を過す気もないのに、明日からの四旬節を前に肉を食べ尽くし、旨酒を飲み干そうと騒いでいるだけの集まり。今晩、夜明かしに付き合っても得る情報は期待できまい。
「肉食火曜日に垂涎のご馳走を前にしてアレティン大尉は禁欲的だったじゃないですか? きちんといただいたんですか?」
新聞記者のボーションは口先だけ心配を告げた。
「胃もたれしそうな皿には手を伸ばしませんでしたがね、きちんといただきましたよ」
「まだ本調子でない? 痩せましたものね」
しばらく会っていなかった相手、おまけに社交辞令で嘘は吐きたくないと馬鹿正直な奴だ。有難く受け止めておこう。
「冬眠中の熊のごとくですよ」
「復活祭まで肉や卵を食べないでいるつもりはないでしょう?」
「勿論。ですが、今のところは体力を温存するよう努めた方がいいのでしょう。そろりと目立たぬように退散します」
卓上を見渡すとお喋りはまだまだ止みそうにない。ラ・パイーヴァや最低限挨拶を欠かせぬ者たちに声を掛け、屋敷を後にした。星も月も見えぬ夜空、ガス灯の灯りが道しるべ。夜気に思わず肩をすくめた。それでも踏み出す足に吹き付ける冷気は以前よりも厳しさを緩めた気がする。それとも謝肉祭の人いきれが残っているだけか。
祭りの熱狂は明日になれば、暖炉に残った灰となる。赤く点った燃えさしは白い灰に覆われる。復活祭まで精進と祈りに捧げる四旬節が始まる。四十日間、パンと水だけで生きられるはずもないが、不信心の者でも明日一日くらいは慎ましやかな面持ちとなる。
暗い雲で遮られた夜空の上には星が瞬いているだろうか。じきに星は太陽に場所を譲る。身を縮め、凍えるような大気は日が経つにつれ追いやられる。謝肉祭が終わり、四旬節でキリストの復活を偲んで過せば、待望の季節が来る。四旬節は春までを数える毎日となる。
やがて寒そうに枝と幹を晒す街路樹は芽吹き、早春の花も蕾を開く。吹く風も切りつける鋭さから、抱き締める温もりを与えてくれる。
それまでには病の影響などきれいさっぱり消え去って、咳に悩まされることも無くなっているだろう。さて、冬眠中の動物を見習って、余計な体力を消耗せぬよう、大人しく休もう。目覚めたら『ティユル』に行って、ラ・パイーヴァの話をせねばなるまい。ラ・パイーヴァが思い付きをすぐに忘れてくれるのが一番いいのだが、用心しておこう。




