三
「ええ、いつだったか、オペラ座で話していた者です。母方の従妹です」
「あなたのお母様の? それはええと、かつてのカレンブルク王国の?」
かつては余計だ。
「はい、カレンブルクのリンデンバウム伯爵家です。彼の女の父と私の母が兄妹でした」
「巴里で暮らしていらっしゃるの?」
「ええ、現在はそうです」
訊かれたこと以外は答えない。
「看病してくださるなんて余程親しいんでしょう?」
「たまたまです」
「本当はあなたのいい人なのでは?」
「従妹です」
ラ・パイーヴァは俺が答えたくないのを察したようだ。
「そのうち紹介してくれと頼もうと思ったのだけど、いいわ。今のところは我慢してあげる」
気になる言い方をする。
話題を変えようと俺は咳払いをした。事実、まだ喉がざらつく。会話が続いて辛くなってきていた。
「失礼」
と下を向くと、呼び水なったように、咳が止まらなくなった。黙って見ていたラ・パイーヴァはわざとではないと見て取って、扇で俺の背中を軽くはたいた。
「失礼、長く喋っているとどうしても……」
「まだ体をいたわらなくてはならないわ。ご夕食に誘おうと思っていたのだけれど、これでは晩餐の席はお辛いかしら?
今日お招きしている人たちがいるから、あなたの席も準備させようかと思っていたのに」
こちらは挨拶だけですぐに退散するつもりでいたから、そう取ってもらえるのは有難い。お喋りもそうだし、飲酒や紫煙はなお喉に来る。
「折角ですが申し訳ございません。今日はこれでお暇します」
「まあ残念。病み上がりのやつれ具合が魅力的に見えるという人たちもいるから、きっと同席する女性たちは喜んであなたとお知り合いになりたいと思うわよ」
大昔に受けたらしい病弱な白面の貴公子を気取るつもりは一切ない。ラ・パイーヴァは俺の様子からそんな設定も面白いと思ったのか。人が弱っている所に性的魅力を見出そうとするのは悪趣味だ。ジゴロ気取りの優男ではあるまいし、軍人として面白くない。
「食欲が回復しておりませんし、ご婦人方との会話を楽しむ気持ちの余裕がありません。
またの機会にいたします」
無理な引き留めはなく、俺は解放された。屋敷から出て、深呼吸をする。冷たい大気は肌を刺し、鼻や喉の粘膜を刺す。それでも肺を充たす清新な空気は頭と心を生き返らせる。上着を脱ぎたくなるほど暖房を入れた屋敷は息が詰まりそうだった。俺が一々敏感になっている所為かも知れない。彼の女の感覚が鈍くなっているとは言うまい。年下の俺が肺炎で寝込んだくらいの巴里の寒波だ。自身が風邪を引いてはと用心しているに決まっている。
俺が何の目的で出入りしているかぐらい判っていると思うが、ラ・パイーヴァの自分の欲に忠実だ。そしてそれを果たそうとするのに躊躇がない。流石はプロイセンで五指に入る財産家を後援者に持つ女性だ。
毒気に中てられた気分だ。また熱が上がったら大変だ。悔い改めを望む清貧の仁のごとく、身を慎んで、養生に努めよう。豪華な宴よりも消化しやすい軽い食事だ。大食と鯨飲の罪を犯すにも体力がなければ叶わない。
春待つ身は力を蓄え、温存する。
気分を改める為に『ティユル』に寄った。さいわい日曜日で洋裁店は休みだ。通りから裏に回って、声を掛けて中に入る。
「こんにちは、いらっしゃい」
店側から声がした。
「こんにちは」
と店を覗くと、ベルナデットとマリー゠アンヌがいた。店のカーテンを閉めて隙間からの光の中、布地を拡げている。
「ご機嫌はいかがですか? 忙しい所にお邪魔します」
「気分は上々よ。あなたも元気そうで何よりだわ」
「こんにちは、すっかり回復したのね、安心しました」
二人は布を置いた。
「お休みの日にもお仕事ですか?」
マリー゠アンヌとベルナデットはちらと視線を合わせた。
「ちょっとした確認です。謝肉祭での衣装の注文があるので」
ああ、祭事となればプロテスタントよりカトリックが熱心だろう。確か、フランスでも仮装して出歩くのだったかな?
「先月、貴重な働き手を奪ってしまって申し訳ない」
マリー゠アンヌはとんでもないと手を振った。
「何を言っているんですか! あなたは家族同然なんですから、そんな言い方をしないで」
そうよ、とベルナデットが横で肯いた。ベルナデットがいなかったらと考えると、恐ろしい。
「それはそうと、半端な時間にあなたこそ日曜日なのにどこかに用事で出掛けていたの?」
「ええ、仕事の関連の有閑のご婦人に挨拶に。皆さんにお会いしたくて、寄らせてもらいました」
「あら、ここへはついでなのね」
ベルナデットはぐるりと目を回して、拗ねるように笑ってみせた。
「あなたには敵わないな。やはり同じご婦人でも、あなたは違う。折り曲げられた心をアイロンをかけたようにパリッと伸ばしてくれる」
日曜日に仕事なんてお互い災難、とベルナデットは照れながら肩をすくめた。




