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君影草  作者: 惠美子
第三十七章 むかしはものをおもわざりけり
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 彼の女に――ベルナデット・ド・ラ・ヴァリエールに――何故惹かれたのかと問われれば、俺が彼の女の声に振り返ったから、そしてその佇まい、漂わせていた雰囲気が忘れられなくなったからと答えよう。どことなく自分や一族の顔立ちと似通っていた所為なのかも知れない。面識がない故に、話し掛けるのにためらう小鳥のように、俺を見詰める姿。誰なのか、知りたかった。そしてその後もその面影を忘れず抱き続けられたのがどうしてなのか、知りたかった。

 思いがけず再会し、見逃せなかった。リンデンバウムの伯父の血筋と判っただけでも新しい水脈を得られた気分であったし、彼の女はこんな俺でも好意を抱いてくれた。

 抱き合い、激しく求め合い夜を過してなお執着は色褪せない。よじれた糸を(ほぐ)そうとして力の加減ができずに千切って放り出すも、諦めもない。

 一人の女性との仲が続いただけでも自分には驚きだ。

 熱で身動きできない間、ベルナデットが側にいてくれてどれほど励まされたか言い表せない。

 ベルナデットは母のような女ではない。

 なかなか皮肉なもので、俺は母のような女性を嫌悪しながら、男を頼らないような女性を愛嬌がない、物足りないと感じていたようだ。女性は現代社会で慣習の面でも法的にも男性と同等の権利を有していない。しかしそれは女性には権利の裏返しである数々の義務がないことを意味しているし、男性が金銭的に優位であるなら権利の少ない女性を保護すべきだ。俺の考え方が誤っているとは思わないが、このままでは女性は進歩を得られないのかも知れない。権利がないから護ってもらうとは考えず、権利を得られるようにしようと自分の足で立とうとするのは尊い。フェリシア伯母だって世襲の伯爵位を継いだが、確たる意志を持っていた。アグラーヤだって自活の道を得たし、マリー゠フランソワーズの伯母も洋裁店(メゾン)を持った。マリー゠フランソワーズの娘であるマリー゠アンヌとベルナデットもまた同様に立ち働いている。

 俺はそんな女性たちが、多分、好きなのだ。一方的に保護されるのを望まず、たつき(、、、)の道を持ち、孤独を恐れない女性が。それでいて自分の領分を侵されるのではないかと俺は無駄な料簡に囚われている。

 ベルナデットとの今後を大事にしたいと考えるなら、ちっぽけな思い上がりは改めなくてはならないだろう。

 心の弱さに気付いて、それに目を背けるのは難しい。知らぬ振りをして過すのでもない。強くありたいし、彼の女とその家族を守りたいと願う気持ちは嘘偽りない。

 発熱で消耗した身体を少しずつ馴らして体力を取り戻していくように、精神もまた日常を取り戻す。戦場で命の遣り取りをしたことに比べたら、病床での死神(タナトス)の歩み寄りは遠かった。生き返り、充実した(せい)をこの手に戻す。ベルナデットとの命の喜びを分かち合いたい。俺が彼の女と家族を支える。そして彼の女もまた俺を支える。生きること、そのものが二人の価値になる。

 回復した暁にはプロイセンの陸軍参謀本部フランス部と大使館の駐在武官の職務が待っている。

 先のことは判らない。

 軍人としてプロイセン国王に忠誠を誓ったのも真実なら、一人の女性との先々を大切にしたいと望むのも真情。

 以前の俺だったら女性の優先順位は下だった。昔はなんと物事を単純に考えていたことだろう。フランス人の従妹で、俺にとっての巴里の象徴。彼の女の快い声音のお喋りに耳を傾け、飽かず見詰め合える得難い存在。

 肌の温もりや柔らかさを味わってしまえば、砂交じりに乾いてしまう肉欲で終わりはしない。尽きぬ泉の魅力は心に染み入り、なくてはならない女性だと信じてしまう。

 我が心は狂に入る。

 願わくば狂のまま死に至らん。

 あひみての のちの心に くらぶれば むかしはものを おもはざりけり

                       権中納言 敦忠


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