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君影草  作者: 惠美子
第三十五章 孤愁
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 お預けを命じられた犬の気分の俺を、ベルナデットは困ったようなしぐさで見る。二人の意見が合わないかも知れない、そんなおそれを抱いているのだろう。それとも重大な決断をしたものの、俺に告げるのを躊躇っているとか。あれこれと考えてしまう。

 ベルナデットはやっと返事をした。

「ええ、判りました。オスカー、あなたとお話しましょう」

 場所を変えた方がいいわねえ、とマリー゠フランソワーズが付け加えた。

「それでは外へ、どこか店で……」

 言い掛けると、ベルナデットが遮った。

「いえ、外には出たくないわ。作業する部屋が今空いているから、そこでお話しましょう。長くかからないでしょう?」

 そう言われてしまうと、連れ出せない。皆して聞き耳を立てるのではと思わないではないが……、いや俺は怯懦ではないはずだ。後ろ暗いことをしようとしているのでもない。

「ではそうしましょう」

「ここの片付けと晩ご飯は任せてもらうわ。あとは二人でお話していらっしゃい」

 マリー゠アンヌの言葉に従い、感謝を述べつつ、俺は席を立ってベルナデットの手を取った。廊下に出て、ベルナデットが針仕事に使う作業部屋に案内してくれた。

「ここよ。散らかっているけれど、台と椅子があるからいいでしょう」

 トルソーや裁縫道具が置かれ、縫い掛けの服地や色見本やリボン、糸が出されたままの仕事部屋。お針子たちが明日仕事を始めやすいようにしているのだろうから、動かさないようにしなくてはならない。彼の女たちのたつきの場だ。

「今日は疲れてしまって、今から外に出るのが億劫だったの。折角のお誘いだったのに、ごめんなさい」

 ベルナデットは椅子に掛けた。眩し気な表情は作業台に置いた灯の所為ではないようだ。

「急に来て悪かった。でもいつ訪ねたらいいかと考えたら埒が明かなくなりそうだったから、思い切った」

 ベルナデットは俺ではなく、灯りを見詰める。

「あなたに会いたくて会いたくて、いっそお部屋にいこう、でもお仕事に差し支えるんじゃないかと足がすくんでの繰り返し」

 ベルナデットは俺ではなく、灯りを見詰める。

「きっとあなたは仕事で忙しいのだからと自分に言い訳していた」

 白い手を取り、そっと口付けする。白い手は俺の手を握り返す。

「こちらの仕事も立て込んでいたし、あなたは本当にしばらく会わないつもりなんだろうって言い聞かせていた」

「済まない」

「あなたがそんなことを口にする必要はないの。わたしの心が弱いからいけないのよ」

 俺は両手でベルナデットの手を包んだ。

「宮廷での空騒ぎに伺候しながら、あなたの姿がいつも頭にあった。あなたは得難い女性だ。だが俺はあなたを悲しませ、苦しませる。どうしたらあなたを喜ばせ、微笑ませられるだろう? 俺にそれができるのか? 大きな棘みたいに心に刺さっていた」

 一度黙り、俺は深呼吸をしてそっと彼の女の手を離した。少しずつ暗い家の中で進むのに似た手探りだ。

「俺は無力な人間だ。あなたを傷付けるのなら俺はいない方がいい」

 青い瞳は瞬き、露を含んだ。震える声が響いた。

「あなたがいてくれればいいんです。あなたさえいてくれれば!

 ええ、あなたが言う通り、将来どうしようか答えを急がなくてもいいんです。今のままでも充分満足です」

 言わせてしまった。不甲斐ない。一方、彼の女の声は乾いた地に染む慈雨のごとく温かく胸に拡がった。ベルナデットは俺を見捨てていない。俺と別れたくない、その一心が垣間見える。

「あなたに無理を強いていないだろうか。あなたとは離れがたい、大切な女性と思っているのは真実だ。しかし、やはり俺はあなたに相応しい男ではない」

 ベルナデットの手が唇に触れた。

「そんなこと言わないで。言う必要ないのよ。

 今まで通りでいいの。今まで通りで」

 ベルナデットは立ち上がり、俺の顔に手を伸ばした。やさしい口付けの雨が降りかかった。幾多の接吻に、彼の女の想いの強さに流された。彼の女を傷付けない為にも彼の女の願う通り、このまま、当面の間過そう。

 但し、節度は守る。情熱の激しさにいつか慣れ、あってもなくても価値が変わらなくなる日が来るかも知れない。

 今ここにあるのは(かつ)えを満たす甘さと柔らかな温もり。

「あなたが望むなら、あなたといよう」

「ええ、また一緒にお出掛けしましょう。これから寒くなるけれど、巴里の冬や降誕祭(ノエル)を楽しみましょう」

「ああ」

 宮廷行事で呼び出されたら、降誕祭(ヴァイナハテン)も年末年始もなくなってしまうが、できるだけベルナデットに会いにこよう。彼の女の存在がなくては生きている甲斐がない。

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