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君影草  作者: 惠美子
第三十五章 孤愁
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 万聖節も死者の日も過ぎ、万国博覧会も終了した。各パヴィリオンは解体され、出展されていた物品は運び出される。会場は元のシャン・ド・マルス広場に戻る。

 前もって断っていたとはいえ、『ティユル』にしばらく顔を出さなかった。

 木枯らしが身に染む。

 どんな顔をして『ティユル』に行けばいいのだろう。気が重い。だが一方でベルナデットを求めている。

 会いたい。

 だが何と言ったらいいのだろう。無沙汰を詫びるのはともかくとして、それ以外は?

 アンドレーアスは商用でフランクフルトに赴いた。いつ巴里に来るか判らない。いたら盾代わりにと心強かっただろうに、当てにしている自分がまた情けない。仕事に没頭しているうちはいい。しかし、オーストリア皇帝は維納へ去り、俺はさして苦労せず書き上げた報告書を伯林に送るばかりに仕上げた。伯林から新たな任務は届いておらず、いつも通りの巴里での情報収集に戻る。馴れはよくない。職務に倦んだ訳でもない。しかし、またシャン゠ゼリゼのラ・パイーヴァの屋敷に顔を出したり、新聞記者に酒を飲ませて話を聞き出したり、地図と突き合わせながら郊外を探索したり、ベルナデットを差し置くほど至急を要するか。彼の女と会うのを後回しにする方が、先々もっと厄介になる。時間が経てば気掛かりが大きく育ち、負った荷が肩に食い込みはじめるのと同様、重くのしかかってくるだろう。

 夏の間あれほどしげく通いつめたことを鑑みれば、秋に訪ねなくなるのは不誠実だ。ベルナデットは俺の寄宿先にも大使館にも催促の頼りを寄越さなければ、押し掛ける真似もしない。任務の妨げにならないようにと気配りしてくれたのだ。

 ベルナデットやラ・ヴァリエール家の皆の優しさと信頼に報いる為にも、潔く振舞おう。

 潔く!

 一切の怯懦はない。俺は自分を叱咤する。

 金曜日の午後、日が沈む前に大使館を出た。途中花束と焼き菓子を手土産として、『ティユル』に向かった。

 見慣れたコリゼ通りに入った。店は開いている。客がいるかどうかをそっと窺った。今はいないようだ。裏に回り、扉を叩いた。

「どちら様ですか?」

 ベルナデットやルイーズではなかった。お針子(グリゼット)か。

「アレティンだ」

「まあ、ムシュウ! いらっしゃいませ」

 扉が開くと、顔を知るお針子が出迎えた。

お嬢さん方(メドモワゼル)はお店です。どうぞお入りになって」

「有難う」

 心付けを渡して中に入り、そっと店を見遣る。来訪は誰か、どこかのお使いか届け物かとこちらに視線を投げ掛けるベルナデットと目が合った。眩しそうな目付きは一日の仕事を終えて倦んだもの。俺と気付いて、表情が変わった。

「いらっしゃい。こんにちは、いいえ、もうじきこんばんはね、オスカー。なんだか久し振りな気がするわ」

 歓迎してくれるようだ。腕を拡げて、こちらに来た。

「ああ、長い間会っていなかった気がする。あなたに忘れられたのではと不安だった」

 微笑と悔しさが入り混じる。

「忘れやしないわ」

「俺の無沙汰を不実と(なじ)ってくれ。どんな形にせよ、あなたの顔を間近に見、声を聞き、息遣いを感じたい」

「あなたに会えない時間がどれだけ長かったか判るかしら? あなたに伝えたかったことがどんなに沢山あったか知れない。

 でもこうしてあなたといると言葉が出てこなくなりそう。あなたをいくら責めた所で、わたしの気が晴れるとも限らない」

 口では憎らしいことを言いながら、ベルナデットは俺の肩へと手を伸ばした。柔らかく温かな感触が染み入り、揺れ動いていた心が凪ぐ。

「マ・シェリ、あなたの存在を神に感謝する」

 お針子が両手を挙げて肩をすくめたのが視界の端に映った。

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