二
大佐は周囲を見回し、俺を見ず、囁くような声で答えた。
「オーストリア皇妃はどうやらご懐妊だ」
予期していなかった言葉に瞠目した。まあ、夫婦なのだし、皇妃はまだ三十に達していないのだから、充分あり得ることだ。
「まだ公表されていないが、それが来仏しない理由の一つだと」
「成程。長距離の移動は体の負担になりますから」
大佐は人差し指を唇の前に持ってきた。
「オーストリア側は正式に発表していないから、大尉も公言するな」
「ええ……、承知しております」
早とちりで終わる可能性があるうちは、沈黙している方が賢い。それにフランス皇妃ウージェニーは四十を超えて、嫡出子は皇太子一人(ナポレオン3世がよその女性との間に幾ら子を儲けても庶子の扱いで、皇帝の後継者になれないが、妻として楽しい訳がない)。オーストリア皇妃の懐妊が確実ならその子どもは四人目だ。皇帝に見染められて結婚したのは共通なのに、不実な夫に悩まされ、もう妊娠を望むのは酷な年齢のフランス皇妃がいるテュイルリー宮廷で話は控えた方が無難だろう。
オーストリア皇妃の懐妊を聞かされ、鋭い刃で刺されたように一瞬胸が痛んだ。結婚していようがいまいが、男女が秘め事を行えば当然の結果としての事実、今教えられた知識でもないのに動揺している。薄っすらと生えてきた体毛や声変わりに戸惑う子どもじゃあるまいし、心を騒がせるほど俺は初心だったか。
いや、俺は故郷にいるアガーテを思い出したのだ。緑色の宝石のような目をした娘。俺はアグラーヤとお互い命の在り処を探るように拙くもつれ合い、希望を見出そうとした。生きる力を求め、温もりはおそれを拭い去った。道に惑う夕闇に与えられた灯火のようなひととき。わずかな触れ合いが一つの生命を生み出していた。長い間知らなかった。知った後も養い親がいるのだから関わる必要が無いとはっきり告げられた。
知らぬうちに父親になっていた事実に驚愕と、アグラーヤとハーゼルブルグ子爵家の方たちへの申し訳なさでいたたまれない思いをした。
俺はこの巴里でベルナデットと出会った。この先どうなるか、自分でも判らないながら、彼の女を求める気持ちを抑えられない。彼の女もまた俺が好きだと言ってくれ、必要としてくれる。そして、ベルナデットは俺との将来を夢見はじめている。
男と違い、女性は立場が弱い。法的に許される権利も限定されている。まして素行に関して、男性より女性に対して道徳は厳しい。
いささかの用心はしているものの、神は思わぬ所にさいわいを恵み給う。ベルナデットに子が宿ったとしても不思議ではないのだ。フランツ・ヨーゼフが妻としているのと同じことを俺はベルナデットとしているのだから。
俺とベルナデットは結婚していない。マリー゠フランソワーズもマリー゠アンヌも結婚しないで子を生したと、例と語ってはいけない。
俺はベルナデットと結婚するか決めかねている卑怯者だ。俺たちに子ができたと告げられたとして、俺は素直に喜べるか? 求めるだけで先を誓えないのは男として、人間として、欠けている。
欠けている俺は彼の女に――ベルナデットに相応しいか?
ベルナデットは仕合せになる資格のある女性だ。辛い経験をしながら、家族と助け合って熱心に仕事に取り組んでいる。一生懸命な彼の女を、俺は悩ませている。
ベルナデットに縋り付かれ、努力すると答えた。
叶えようとは言わなかった。
逃げだ、と判っている。どれだけ彼の女を悲しませているか。ラ・ヴァリエール家の面々も憤慨しているに違いない。
何もなければ、会わなくなればただの従兄妹同士に戻れよう。しかし、一旦男女の仲になったのだから、何らかの形で決着は付けなければならない。
だが考えたくない。万聖節や死者の日にはぜひ来てくれとマリー゠フランソワーズ伯母に言われたのに、オーストリア皇帝の来仏での関連行事に出席する大使の護衛があると断った。顔を合わせてもどのような態度を取ったらいいか決められない。
巴里での大事な家族なのに、気まずくなるような理由を自分で招いた。やさしい伯母やマリー゠アンヌ、明るく無邪気なルイーズに会いたい。
誰よりも誰よりもベルナデットに会いたい!
裏腹な感情を抱え込み、社交の場で仕事に集中せねばと自分に言い聞かせた。




