十
大袈裟なと口を挟めない。いきなり結婚の言葉が出て、こちらも反省の気持ちが薄っすらともたげてくる。俺にその気がなくても、彼の女はそんな願望を抱き始めていたのだろう。未婚の女性を度々会って、床を共にしていれば、次第に花嫁姿を期待するのが普通なのかも知れない。近い将来そうならなければ不名誉になると本人も周囲も到着点に据えるだろうし、夢破れたら俺一人を悪人にして憎んでくれで済むだろうか。
心惹かれる女性に出会って、近付き、手折れば、将来どうすればいいか。
巴里の女友だちで、と断って始まった交際。すぐに従兄妹同士と判り、伯母の一家に紹介を受け、家族としての親しみが深まった。いずれ飽きたら、冷めたらと自分の感情に基づいて推し量る俺が浅はかだった。女性の立場の弱さを知っているつもりで、深い慮りが足りなかった。
「あなたと違って俺が考え無しなんだ。
二人にとってどうしたらいいのかすぐに思い付かない。
でもここでかっか来ても仕方がない。頭を冷やそう」
「知るもんですか! あなたなんか悪魔に喰われちゃえばいいのよ!」
耳元で思いっきり罵ってくれた。効いた。耳を抑えながら、座ったまま後ずさった。
「わたしがどんなに心配しているかちっとも知らないのよ。ゲルマンの人はやっぱり金属のように冷たいんだわ」
「マ・シェリ、周りに聞こえる」
「聞こえたってあなたの所為よ。知るもんですか」
どうしたら鎮まってくれるのか。
「ベルナデット、落ち着いてくれ。これじゃ話にならない」
腕を伸ばし、彼の女を抱き締めた。両手で俺を叩き、押し返そうとするが、そんな隙間の生まれないよう、しっかと力を入れる。
「ベルナデット、一旦口をつぐもう。俺も何も言わない。あなたも何も言わない。しばらく黙って深呼吸だ」
日暮れの残り火が漂っているが、お互いの血の熱さが相殺してくれる。肩を撫でているうちにベルナデットの抵抗は止んだ。これでいいだろうかと俺は腕を緩めた。
しかし、まだベルナデットはこわい顔をしている。
「悪魔に喰われる訳にはいかないが、これ以上あなたを怒らせたり、悲しませたりしないよう、お別れした方がいいのだろうか。あなたの望む全てを叶えられそうにない。
あなたもそんな不実な男は捨てた方が仕合せだ」
「簡単に言わないで」
「実際あなたの希望に沿えそうにない」
ベルナデットはうつむいた。唇を噛んで、考え込んでいる。彼の女自身の内なる嵐はまだ吹き荒れているに違いない。辛抱強く、凪を待った。
やがてベルナデットは顔を上げた。露を含んだ瞳が俺を映している。
「あなたの言う通り、わたしが焦っていたのね。良くないところは改めます。だからしばらく会わないだの、お別れしようだの言わないで。そんなことになったら、心臓が止まってしまう。離れ離れになるのは駄目。
でも忘れないでね。ラ・ヴァリエール家の女たちは男運がないと言われないようにして欲しいの」
「努力する」
卑怯と取られても構わない。その場しのぎで嘘は吐きたくない。ベルナデットは痛みを堪える、諦めたような微笑を浮かべた。
「あなたを嫌いになれない。好きな気持ちは変わらない」
しばらくして、いや、それほどの時間は経っていなかったか、扉を叩く音がした。
「お茶にしましょう」
と伯母の声だ。伯母に挨拶をしなくては、とベルナデットと部屋を出た。
「付き合っていれば喧嘩の一つもするものだけど、親を不安にさせないでね。声が聞こえて、動悸がしてきた。体に悪いわ」
「……」
「オスカーには悪いけれど、わたしは娘の味方ですから、それは心得ていて頂戴。
違う場所で生まれて育った人間ですもの、将来についての考え方や暮らしの習慣が違うのは当たり前。どちらかが我慢して呑み込んでいるのが一番よくない。だからお互いの気持ちを出すのはいいの。でも静かにお願いするわ」
これには二人とも赤面しつつ、肯かざるを得ない。
「理由はそれぞれでも、よそから見たらどこでも同じ、狎れ合いで起きる痴話喧嘩」
年長者の言葉が鋭く刺さった。




