二
単調な書類仕事の報告業務を終え、片付けていると、ヤンセン曹長が声を掛けてきた。
「アレティン大尉、書類ができたんですか?」
「ああ、できた。送るばかりになっている」
「ではお預かりして、伯林への便に入れます」
「頼む」
ヤンセン曹長は俺の渡した書類の束を受け取った。量に関して、曹長は素直な感想を述べた。
「長い休みが明けた学生みたいですね」
「締め切り間際のやっつけ仕事ではない。きちんと調べた上、見直して、清書したつもりだ」
「いえ、張り切っていらっしゃると思ったんです」
「上つ方のお相手をして肚を探るより、のっぱらを歩き回っている方が性に合っている」
勿体ない、と曹長の言だ。有意義な時間の使い方に、異論があるらしい。
さっさと大使館を出て、『ティユル』に立ち寄れるかと浮足立っていたら、シュタインベルガー大佐に呼び止められた。
「露骨に嫌がることもあるまい。急を要する事案を抱えているのかね?」
「いいえ、ありません」
「確認しておくことがある」
シュタインベルガー大佐に指し示されるまま、俺は席に着いた。大佐には愛想笑いは必要ない。努めて事務的に対する。
「今月の下旬にオーストリア皇帝が来仏する」
「先々月、ザルツブルクでフランス皇帝が万国博覧会に招待して、やっとのお出ましですね」
「ああ、アレティン大尉は伯林からの指示は来ているのかね?」
「いいえ、ありません。ですが、動向は注視します。
急な命令が届けばそれに従います」
ポーリーヌやリオンクール侯爵だって、ただ歓迎の準備をしていないだろう。
「ザルツブルク市民のようにオーストリア皇妃の美しさが評判通りか、フランス皇妃と見比べられません。少しばかり残念です」
大佐は皮肉っぽく口の端を片方上げた。
「少しばかり、と付ける辺りが大尉の正直なところだ。貴官は巴里の美しい女性を身近にしているのだから、オーストリア皇妃を遠目で眺めたくらいでは何も感じまい」
どこまで知っていて言っているのだか。
「さあ? 優れた芸術作品を鑑賞して感動するのと同じです」
「芸術作品――、そういえばバイエルンの国王の結婚取り止めの報はもう耳にしたか?」
「ええ、知っています」
「一度結婚式を延期して、大丈夫かと見守っていたら、今度は止めると来た。国王の義務も果たせないとは呆れたものだ」
上辺を取り繕って神の前で夫婦の誓いをするのは偽善であるとしたのか、とことん女性嫌いなのか知らない。バイエルン国王ルートヴィヒ2世は正式に婚約を解消した。それも結婚式を予定していた今月、十月十二日の直前――十日になっての発表だった。バイエルン国内、首都ミュンヘンは慶事の準備で盛り上がっていただけに、失望している。国王と同じ日に結婚式を挙げようとしていた若者たちの期待、記念になる行事をしよう、儲けに結び付けようと計画していた役人や商人たちの努力、全て無駄となったのだ。革命が起きようと、貴族よりも商人が財産を所持していようと、この世の中、王様とお姫様が結ばれてめでたしめでたしで暮らすのが庶民の憧れ。
憧れを叶えてやれなかった国王はまだ二十二歳のはず。年齢を重ねれば義務を理解し行動できるようになるか、ほかの王位継承権に近い王族に人気取りをさせるか、ミュンヘンの宮廷は大いに思案しているだろう。
「品行が悪くても女好きのワーグナーを国王の側に置いて、女性礼賛を聞かせるしかないのか」
何やら呟くシュタインベルガー大佐には悪いが、それでルートヴィヒ2世が女を侍らす気になるのなら、ゾフィー公女との結婚は解消しなかったと思う。