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君影草  作者: 惠美子
第三十四章 いずこも同じ秋の夕暮れ
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 陽が落ちるのが早くなった。朝目覚めてもまだ暗い。

 季節の移り変わりを味わいながら、巴里の城壁まで出て、歩き回り、スケッチを描き、地図と合わせてみて、実際の印象や差異を事細かに記し、伯林に報告を送る。プロイセンとフランスがことを構えるとなったら、巴里の北から東に掛けての場所が進行してくる方向となろう。二手に分かれて、城壁をぐるりと包囲することになるかどうか。南や西、或いはヴェルサイユ辺りは軍団を敷くには適する平地があるか。

 そもそも仮定の条件であり、そこまでプロイセンが勝ち進めるかさえ判らない。

 もし争い事が何も起きなくても、得られる情報は手元に集めておくべきだ。作戦の立案と利用するであろう線路や道路、兵站はあらゆる想定を念頭に入れておかなくてはならない。蟻の一匹一匹が集める木の葉が少量でも、次々と運び込まれて山となれば焚火ができるようになるだろう。木の葉のような書類が伯林でまとまり、対フランスの作戦の一助になればと、それを励みに俺は巴里にいる。

 俺が住むカルチェ・ラタンは学生の街。学生相手の食堂や古着屋に不自由しない。古着屋の主人に不思議そうに見られながらも、下町遊びをしてみたいからと、古着を買い、田舎から出てきた学生風情の姿をして偵察するのは、士官学校や南部軍団で繰り返した悪ふざけを思い出すようで、案外面白い。その時とは違い、仲間はいない。俺一人か、金で雇った案内人が付くかだ。学生街の食堂で見聞きして覚えた言葉遣いや仕草で取り繕い、ふらふらと散策しているかのように歩き、時折詩心を刺激されたといった顔をして、帳面にメモや素描を書き付ける。郊外はだだっ広い畑の場所もあれば、狭い住宅の並ぶ箇所もある。

 さて、南西だと職人街や工場が並ぶ場所があり、その先は野原になっているのだそうだが、人が住み着いているのだろうか。地図を眺めて、既に観察してきた場所を頭の中で塗りつぶし、次はどこに行ってみようかと考える。

 ゴルツ大使の護衛で宮廷や各大使館を回り、宮廷の催事、ラ・パイーヴァの屋敷での宴会の合間を縫っての探索で、そこそこ忙しい。食事や就寝、起床は不規則だ。起きてからコーヒーか紅茶と薄く切ったバゲットを二、三枚腹に流し込み、床に就く少し前にやっとまともな食事を摂る日がある始末。ラ・パイーヴァに招待されての宴席で全く遠慮しなくなった。慣れは怖い。

『ティユル』に顔を出したり、日曜日にベルナデットを誘って出掛けたりするのが俺の息抜きだ。

 ベルナデットは俺といるのが楽しいと言ってくれる。俺もまた彼の女と会うのは何よりも代えがたい。約束の日を迎えれば、刻限になるまで、時の歩みが亀のように感じられる。ベルナデットと一緒にいると瞬く間に時は過ぎて、一旦別れなければならない。次会う約束をして、待ち遠しさに焦がれる。

 女に入れ込む、とはこんなものなのか。

 審判者のように上方から見下ろすもう一人の自分がいて、お前は女を警戒していたのではないか、お前が女に夢中になるとは愚かしい、とお節介焼きの乳母さながらに言い聞かせてくる。

 俺自身、よく判っている。一人の女に執着して、見苦しい。

 俺が先かベルナデットが先になるかは知らない。いつか気持ちが冷める。心は変わる。

 だが、走り出した機関車は急に止まれない。太陽が昇ってもその日のうちに沈むと嘆いて、何もしないでいられないのと同じ。

 たとえがおかしいかも知れない。頭から消し去ろうとして、消えなかった面影。再び(まみ)えて覚えた全身を巡ったおそれと歓び。

 ベルナデットは俺にとって大きな存在になっている。

 自己を抑えられない我が身が弱いのだろうかと、小さな迷いがないではない。職務で疲労して心身を回復させるのに、女性に頼っているに過ぎないだけ、と。

「オスカー、そんな顔をしないで。わたしだってお別れするのは辛いけど、あなたもわたしも明日からまた仕事ですもの、遅くなる訳にはいかないわ」

 身を寄せ合い、口付けを交わし、切なく喘ぎながら、ベルナデットが暇乞いを告げてくる。彼の女は俺を信じ、頼り切って、抱きしめた腕を離せなくなる真っ直ぐな感情を秘めた瞳を向ける。俺の手の内に置いたままにしたい。彼の女も望んでいるはずだ。

「大好きよ、愛している」

 そう言って、ベルナデットはやさしく俺の胸を押し返した。腕をほどきながら、もう一度口付ける。

「マ・シェリ、また会おう」

「また会いましょう」

 それほど冷え込む時節ではないのに、身に堪える。

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