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君影草  作者: 惠美子
第三十二章 市中の話題
322/486

十一

 ジラルダンの向かいのエステル・ギモンの紹介も受けた。ラ・パイーヴァよりも年嵩で、既に高級娼婦は引退しているらしい。容姿の衰えを隠さず、恬淡としている。太陽王の頃のマントノン夫人が王の寵愛を受ける前の生活で、客をもてなす料理の品数が足りないのを小咄で補った逸話を思い出すような、面白おかしい話術の持ち主だ。くすくすと忍び笑いをするのを堪え切れず、ナプキンで口元を拭いつつ笑い、快く盃が進む。若さと肉体だけを売り物にする高級娼婦ばかりではないのだと、巴里の半社交界(ドゥミ・モンド)の間口の広さに感心する。

「ジョルジュ・サンドはオデオン座のサラ・ベルナールがすっかりお気に入りで、自作を舞台に掛けるのなら彼の女に出てもらうと言っているわ」

「どちらかというと、サラ・ベルナールにはジュルジュ・サンドの作品よりもユゴーの『エルナニ』に出てもらいたかった」

「すぐには無理でもきっと近い将来観られますとも。それとも、サラ・ベルナールにあなたの記事を朗読してもらったら?」

「それには及ばん」

 ラ・パイーヴァは俺に話を振ってきた。

「大尉はムシュウ・ド・ジラルダンの記事を読んだことはあるかしら?」

「いいえ、まだです」

 すっと一言、ジラルダンが問うた。

「伯林の新聞を電信で送ってもらっているのかね?」

 針でも含んでいるような声音だ。視界の端にグラモンが好奇心を露わにしているのが映った。これはあれだ。初心(うぶ)な小娘を下品な言葉で反応を試す、男の顔だ。記者と社主は違う考えで、俺がどんな人間が判断しようとしているのだと思い、さらりと答えた。

「フランス語は話すだけでなく、読むのもできます。ムシュウ・ド・ジラルダンの新聞は『リベルテ』でしたか? 明日にでも早速読みます」

 気にしなくていいのよと、エステル・ギモンが笑い掛けた。

「新聞にもそれぞれ特色がありますから、気に入ったのを手に取ればいいのよ。好みに合わない論調を我慢して読む必要はありません」

「巴里の出来事を知るのも我々の仕事の内ですから、武官だからといって私の身辺を見張っているだけではありません」

 ゴルツ大使の言葉に、エステルは頭を動かし、俺を見る仕草をした。

「あらそれは失礼。大使館の駐在武官さんなら近衛兵みたいなものだと思っていました。大尉さんは見栄えがよろしい」

「褒められているのでしょうか?」

「無論、褒めていますよ。喜んでください」

 緊張したような口振りで言ってみた。

「マダム、有難うございます」

 エステルは世間ずれしていない青年と見てくれたのか可笑しそうにしていたが、ジラルダンは相変わらずの無表情だ。ここでは無害で、大した考えのない人間に取られていた方がよいから、気にしないでおこう。良くないのは俺が有用な情報がないかと動き回る人間だと知られることだ。下手な芝居が通じるご仁ではなさそうだから、ここは難しい事柄を思い出さずに、愛想を売っているのが安全だ。

「アレティン大尉、出世したいのなら世辞を言うより向上心が大事だ。

 それともこの場では用心して隠しているのかな?」

 惚けた顔で取り繕うのがやっとだった。

「ムシュウの仰言る意味は計りかねますが、人生は楽しめる時に楽しむのが一番と決めております」

 卒のない、とジラルダンが呟くのが聞こえた。つい大使に視線を向けた。大使は伯爵と対していて、一切関心がないように見せている。

 ああ、この場では知らぬ顔をしているのが賢い。

 冷えを感じたのは、いくら夏だからといって、陽が落ちてからふんだんに供された果物や氷菓の所為ではない。

 参 考

『新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン』 鹿島茂 筑摩書房

『ジラルダン夫人の生涯 フランス・ロマン派のミューズ』 伊東冬美 TBSブリタニカ

『メディア都市パリ』 山田登世子 ちくま学芸文庫


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