三
「ご機嫌よろしう」
挨拶を交わしながら、女主人はこちらに近付いてくる。香水ではない、髪を飾る百合の香りが強く流れる。
「ご機嫌よろしう、プロイセン大使、ゴルツ伯爵様。ご機嫌よう、アレティン大尉」
生花を使うのは若い娘のようだが、意外と似合っている。彼の女には物足りないかも知れないだろうが、大粒の宝石でなくとも充分見事な装いだ。
「ご機嫌よろしう、今宵もまた月と競うかのように輝いておいでだ」
「お上手でいらっしゃる」
なんだかんだ言ってゴルツ大使は褒めるのが達者だ。
「ご機嫌よろしう、マダム。お招き有難うございます」
俺は当たり障りない台詞しか出てこない。
「折角巴里にいらしているのですもの、楽しまなくては損ですよ」
この巴里での享楽の代名詞であった女性の言葉は年代を経た美術品の重みがある。
「ここにいるだけで郷里への自慢話になります」
ラ・パイーヴァは扇で口元を覆い、声を上げて笑った。
「巴里にはもっと娯楽はありますよ。
大尉は、ほら、お芝居が好きだと仰言っていたでしょう? 今月オデオン座のお芝居はご覧になりました?」
オペラ座やヴァリエテ座ではなくて、オデオン座か。
「いえ、先月は観に行ったのですが」
「大層評判になっています」
ラ・パイーヴァは扇を振りながら教えてくれた。
「わたしは観そびれたのですけどね。オデオン座でユゴーの戯曲を使おうとしたのですが、許可が下りず、デュマの書いたお芝居になったのですって。そうしたら初日に客席にいた学生たちが大騒ぎして、芝居を始められるどころではなかったそうなんですけど、そこの女優のサラ・ベルナールが出てきた途端、学生たちの声が止まり、サラ・ベルナールが客席に向かって、「皆さんは正義をお望みでしょう。ユゴー氏の作品の上演を禁止したのはデュマ氏の責任ではありません。デュマ氏の所為にするのは、皆さんがお望みの正義とは矛盾しています」と言い切って、拍手喝采」
それはまた気の強い。
「帝政に批判的なユゴーの『エルナニ』がコメディ゠フランセーズで受けたのに懲りて、オデオン座で別のユゴーの作をと申請したのを却下したのがとんだ逆効果。学生たちの騒ぎといい、サラ・ベルナールの堂々とした振る舞いといい、デュマに恥をかかせずに済みました」
客席が静まらず、幕を上げても芝居を続けられなくなったら、それこそ第二フランス座の名折れになるところだった訳だ。おまけにそれで大デュマの顔を潰したら、作家の方から作品の使用を将来拒否されるようになる恐れがあった。舞台に出てきて直ぐに客を惹き付けるとは、大した女優だ。
「サラ・ベルナールなら先月の上演で主人公の恋人役をしていたのを観ていました。いい女優だと思っていましたが、それは小官も是非観てみたかったですね」
「そう、面白かったでしょうね。政府の小心振りが目立って可笑しくてたまりません」
ラ・パイーヴァはサラ・ベルナールの舞台度胸や演技力より、政府批判の気風の方が好ましいと感じて話題を振ったらしい。俺と興味が全く違う。
フランス政府にご不満ならヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵の本拠地、プロイセンに別宅を建ててもらえばと思うが、巴里から離れたくないと考えているのだろう。伯爵は単なる田舎領主に留まる人物ではないが、土地柄は変えようがない。
清楚で香り高い百合の花、金糸銀糸で刺繍された豪奢な衣服、どちらも素晴らしい。ただ質が違う。どちらに価値を置くか、人それぞれだ。




