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君影草  作者: 惠美子
第三十二章 市中の話題
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 興奮冷めやらぬまま浅い眠りで迎えた朝は、空に雲がかかって日差しが薄い。外の人通りは昨夜の人出が幻のように思えてくる。昨夜の様子が嘘ではなかった証拠にガス灯に取り付けられた色ガラスの板はそのままになっているし、いつもより多くのゴミを回収した車に乗せた清掃人の荷車が通りを行く。配達や小売りの為に行き交う人たちが混じり、いつもと変わらぬ日常を繰り返している。

 ほんの数時間前まで前進するのに苦労するほどだったというのに、今は早足で歩いてもぶつかる心配がない。声掛けしながら荷を運ぶ人々がいるから静かではない。だが、昨夜の熱気は消え失せ、夜闇に煌めいていた色彩は跡形もない。弱いながらも太陽が昇れば人工の光は居所を失う。

 自然の力には勝てそうもない。

 朝日が照らしているうちに雲が晴れるかと思っていたが、少しも明るくならず、やや暗くなってきた。これはいけないと足を早めた。

 寄宿先に到着する頃、音も無く雨が降り出した。騒いだ後は街だって身綺麗に整えたいのか。

 自室に入って、湿っぽくなった服を脱ぎ、片付けて、一度寝床に横になった。

 ずっと昂っていたからいたから今頃眠くなってきた。猫のように怠惰な気分だ。急ぎの仕事は無い。雨で休みを決めこんでも構うまい。一眠りしてから、また空に訊けばいい。瞼を閉じた。

 開いた。

 明るさが増してはいないが、気温が上がっている。どれくらい経ったかと時計を見る。まだ午前中の内。とはいえぼんやりしていると直ぐに正午になりそうだ。ベルナデットたちは通常と変わらず店に出ているのだろうか。彼の女一人欠伸などしていないだろうか。ふと、朝食の席での皆の顔を思い浮かべた。ベルナデットはいささか気恥ずかしそうな感じでルイーズ相手に囀っており、ルイーズも叔母が尋ねもしないうちから外出について喋ってくれるのを面白がって聞いていた。伯母やマリー゠アンヌは俺に話し掛けてきて、俺は短く、訊かれたことだけ答えた。余計なことを言わないようにするのにはそれが一番いい。親しい人たちに嘘を吐かずに済む。

 平素と同じ食卓。毎日繰り返される朝の過し方が有難い存在だった。士官学校や兵舎の食堂では食欲を発揮するのが男らしさ発露であるかのように、七つの大罪の内の一つを忘れ果てて、それでなくてもうっかりしていると食べないと看做されて皿の中身をかっさらわれる破目になる。そんな忙しさとは無縁で、社交の席の気取りも要らない、仕事の合間の補給でもない、ゆったりと腹も胸も充たされる快さがあった。

 一人寝床に起き上がりながら、呑気に反芻しているのはベルナデットたちに申し訳ないな。

 雨はまだ降り続けているのか。それとも少しは勢いが弱くなったか。窓から外を見る。

 雨足は先程よりは弱くなり、心なしか空が明るくなってきているようだ。このまま晴れていくかも知れない。蒸し暑くなるだろうが、どんよりしているよりはいい。さて、止むと見込んで大使館に出勤することにしよう。

 ベルナデットの残り香を惜しみながら身支度をしているうちに雨は止み、雲間から光が差してきた。大空を、特に西へ目を向け、今日はこれ以上日差しは強くならないだろうと踏んだ。夏のこととて、直ぐに地面は乾くだろう。

 大使館に到着すればしたで、俺宛てに頼りが来ているとヤンセン曹長から教えられた。大使館で預かってくれているのだから至急ではなかろうと受け取った。

 ヤンセン曹長は「他人が封を開ける訳に行きませんでしたから」と付け加えた。便りが如何にも上品なこしらえになっていて、差出人が女性だからって、そうそう特別とは限るまい。ラ・パイーヴァからのお手紙なのだから、俺にとっては私信ではない。

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