九
ナポレオン1世の誕生祭だと、前日から巴里は賑わっていた。ブオナパルテとか、コルシカの人喰い鬼とか、悪口を言われ放題でも、ここフランスでは革命では英雄で、現皇帝の伯父なのだし、誰だって遠慮なく日常を離れて浮かれ騒げる口実は欲しい。俺だってたまには楽天的になる。
ベルナデットと祭りの夜に出掛ける約束をしてから、仕事をしながらも心が浮き立ってくるような、落ち着きのない日を過した。それがやっとその日となり、子どもみたいにはしゃぎたくなる。待て待て、そんなことをしたらいい笑い者だと、逸る気持ちを抑えて、冷静さを保とうとしつつ、身支度をする。
開け放たれた窓から、人々のさざめく声が聞こえてくる。浮かれているのは俺だけではない。午後、昼飯を済ませてから『ティユル』に向かった。
晴天の下、既に多くの人たちが通りに出て、ごった返している。セーヌ川を渡って右岸に行くのさえ困難なくらいだ。俺が予想していたよりも多い人出で、到着するのが遅くなりそうだと、焦ったが、どうにもならない。事故にならないよう気を付けて進むしかない。
やっとのこと大通りを抜け、コリゼ通りに曲がり、『テュユル』に辿り着いた。
おや、店を閉めていない。
俺は店の正面から入った。
「いらっしゃいませ」
と声が掛かった。マリー゠アンヌとベルナデットだ。
「ご機嫌よう、皆さん」
「こんにちは、お待ちしていました」
俺は帽子を取りながら、店の中を見回した。応接の場所に一人見掛けない女性がいる。お客のようだ。マリー゠アンヌに何やら囁き、マリー゠アンヌは肯き、小声で答えている。お客の女性は、有難う、これで失礼するわ、と席を立った。マリー゠アンヌは女性を外まで見送りに行った。
「店を開けていたのか」
そうよ、とベルナデットが言った。
「たまに休ませてくれとお馴染みさんがいらしたり、飛び入りで、人混みで綻びができたから繕えるかとか、隠せる小物があるかとか、着替えに立ち寄ってくれる方がいるので、お店の扉は開けてだらだらしているの」
お客様あってのお店だからとベルナデットは笑う。マリー゠アンヌが戻ってきた。
「いらっしゃい、オスカー」
「お祭の日でもお客の応対とは大変ですね」
「お得意様のお一人ですから。それに秋物の予約のお話を頂戴しましたから、こちらは損をしている訳じゃありません」
「疲れたと言っていても、口は閉じません」
「ベルナデット、口が悪い」
たしなめながらも、マリー゠アンヌは苦笑いをした。
「あれだけ喋っていたら顎が疲れるかと思うのだけど、あの方は違うみたい」
「顎と足や背骨は別々なのでしょう」
そうね、と彼の女たちは肯いた。あともう少しこのままにして、様子を見て閉めましょうと、マリー゠アンヌが言い、ベルナデットは同意した。構わないから座りましょうと、応接用の椅子に三人して掛けた。
「昨日も今日もお天気が良くて、絶好の観光日和」
「セーヌ川を渡ってこちらに来る時は、アルプス越えをするような気分でした」
大袈裟な、と言葉を返しながら、軽口は受けたようだ。
他愛もない話をしながら人通りを眺めていた。
可笑しなものだ。約束の時間が来るまでは、時よ早く過ぎよと願い、こうしてベルナデットの許に来れば、時よ過ぎるなと願う。このひとときが、二度とない、貴重な機会と知っているからこそ、尚更惜しい。
俺の胸中を読んでかどうか、マリー゠アンヌはそろそろ閉めましょうと、立ち上がり、店の玄関を閉めに行った。




