五
優しい言葉だ。優しい女性に寂しい想いをさせてしまった。だが、仕事と私事の区別は大事だ。
棘を引っ掛け、ささくれた肌の傷の痛みが治まらない、そんな息苦しさが漂った。お互いに、いや、彼の女の心を鎮めなければならない。
「マ・シェリ」
俺は立ち上がり、ベルナデットに歩み寄り、手を伸ばした。彼の女の顔に触れ、彼の女は俺の手に手を重ね、目を閉じた。
「側に座っても?」
目を閉じたままベルナデットは答えた。
「駄目」
寝台に並んで腰掛けていたら、誤解を呼びやすいのは儀礼として心得ている。家人が急用で入ってきて見られたら、決まりが悪い、マリー゠フランソワーズが小言を言いかねないと、気になるだろう。
俺が抱き寄せ、口付けすれば、機嫌が直ると単純に考えているのではないかと、ベルナデットが頑なになっているのかも知れない。
正直、彼の女を抱き締めたい。こうしてベルナデットの頬の体温、肌の瑞々しさを手に感じ、更に強く求めたい。
だが、俺はベルナデットに誠実にありたいと願い、彼の女にも伝えた。色事だけを二人の結び付きにしたくない。
「あなたが許してくれないのなら、その通りにしよう」
手を引こうとして、その手には彼の女の手が添えられている。
「有難う。でももう少しこのままでいて」
「耐えるのが辛いが、あなたの仰せのままに」
「そうよ、置いていかれる気分にさせられたのだから、これくらいの我が儘きいてちょうだい」
ベルナデットはしばらく動かず、やがて目を開け、俺の手にもう一度頬ずりし、口付けして、離した。仕合せな肌の心地が去った。
「こんな気持ちになるのは、あなたが好きだから」
「ああ、判っている。あなたの気は済んだ?」
「判らない。少し落ち着いたけれど、まだ喉元に魚の骨が刺さっているよう」
ほんのひとときでほぐれるもつれではないのだろう。人の心は櫛で髪を梳くようにはいかないようだ。ベルナデットの黒髪に指を絡ませたい、肌に手を這わせたい心を押し込めながら、彼の女を虚心で見ようと後ろに下がり、椅子に掛けた。距離を取らなければ、平静でいられない。
「そうだ、今月の十四日か十五日、夜に出掛けないか? 皇帝の――ナポレオン1世の誕生日が八月十五日だから、十四、十五は催し事をすると聞いている。それに一緒に行こう」
ベルナデットは、そんなことがあるのかと、俺に眼差しを向けた。ああ、カトリックでは聖母マリアの何かの祭日だったか。確か聖母被昇天祭。俺はプロテスタント圏の出身だから、育った環境で聖母マリアの記念日に大きな祭りはない。
フランス革命でカトリックは一時衰退したが、王政復古と帝政でまた教会の勢力は盛り返している。ベルナデットが――ラ・ヴァリエール家がどれくらい信心深い生活をしているか、これを機会に教えてくれるだろう。
ベルナデットはやや迷いを見せつつ、俺の誘いに前向きな態度を示した。
「面白そう。街灯に工夫をして照らしてみるのよ」
聖母像を輿で運ぶとか、ミサに行くとかの返事でなくて、ほっとした。