二
俺は深く息を吐いた。
――さらば、気が強くて、世間知らず、捕まえられない風のように気儘で、猛禽に怯える小鳥のようなお嬢様。
昨夜の由無い出来事の影を頭から追い払いたくて、拳で一つ額を小突いた。わずかな刺激で世界は変わらない。しかし、気持ちの切り替えになった。
やはり起きようか。
横たわっているのが苦痛になってきたので、俺は寝床を出て、顔を洗い、着替えをした。鏡を見てみる。まずまずだろう。何か食べて、コーヒーでも口にすれば、寝不足の冴えない面は消えるはず。
部屋中のカーテンを引き、房止めで留めて、窓を開いて回った。街の喧騒と朝露の名残りを一切感じさせない、夏の空気が入り込んでくる。
窓辺から外を眺めていると、扉を叩く音がした。扉を開けるまでもなく、マダム・メイエが朝食を運んで入ってきた。
「お早うございます」
俺は書斎へ行って挨拶をした。マダム・メイエは俺がまだ寝室にいると思っていたのか、足を止めた。持っている盆を揺らすことなく、マダムは朝の挨拶をした。
「お早うございます。お目覚めでしたか」
「いえ、着替えを終えたばかりで、丁度良かったです。いただきます」
無駄のない動きで朝食を置き、マダムは下がっていった。パンにコーヒー、野菜を煮た物を雑に盛った一品、昨晩あたりの野菜スープの余りをすくって皿に乗せた感じだ。いただこう。
腹が減った気はしていなかったが、食べ始めるとそうでもない。食が進む。ゆっくりとコーヒーを飲み干した。これで紳士らしい余裕が出ただろう。大使館へ行っての報告を済ませて、『ティユル』に寄りたい。いや、先に『ティユル』に行きたいくらいだ。
ベルナデットが夕べオペラ座に来ていたとしたら、そう思うと気が気でない。
来ていなかったかも知れない。来ていても俺に気付かなかったかも知れない。それなら慌てて訪問するのは滑稽だ。
考えがあちこちに飛んで、乱暴に運ばれて、今にも零れんばかりになっている桶に汲まれた水の如く、揺れ動き、心臓が跳ね上がりそうだ。
今一度、大きく息を吐いた。
まずは仕事を終わらせよう。その方が建設的だ。
外出の支度をして、マダムに声を掛けて、大使館へ赴いた。
昨夜の首尾に不満足だったからか、寝不足からか、ゴルツ大使は今日俺に用はないようで、報告書のみ提出せよとのことだった。大使と参謀本部への報告書をまとめ、清書した。
「評判の半社交界の名花はどうでした?」
ヤンセン曹長はラ・パイーヴァを指して言っているつもりらしい。ラ・パイーヴァが令名を馳せた年代にヤンセン曹長は巴里に赴任していなかっただろうとかれの年齢から考えつつ、印象的な点だけを答えた。
「大粒の真珠やダイヤモンドで着飾っていて、眩かった」
「それだけですか?」
「ああ、あの首飾りは『カルティエ』で作らせたのかとか、そういった所が気になった」
「大尉は意外と女性みたいな観察をしているんですね」
意外は余計だ。下手に容姿を褒めて世辞だとばれるよりも、身に付けている物を褒めた方がいいからに過ぎない。
「美容にいいと聞けばあらゆることを試しているそうだから、肌つやはいい。
だがなあ、俺はああいった職業の女性とお付き合いするのに大金を積む気にならない。その所為だな」
目の保養にもならないんですかと、曹長は残念そうに言って、俺からの報告書を確認した。
時間が掛かったが、今日すべき仕事は一通り終わった。
すでに心はコリゼ通りに馳せている。自然急ぎ足になるが、自らの歩みがなんとも遅く感じられる。
慌てるな。『ティユル』に息を切らせて、汗だくで飛び込んでいっては、笑われて、何事かと怪しまれる。落ち着いて、涼しげに挨拶しなくては。