表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君影草  作者: 惠美子
第三十一章 煌めく街の灯
301/486

 俺は深く息を吐いた。

 ――さらば、気が強くて、世間知らず、捕まえられない風のように気儘で、猛禽に怯える小鳥のようなお嬢様(フロイラン)

 昨夜の由無い出来事の影を頭から追い払いたくて、拳で一つ額を小突いた。わずかな刺激で世界は変わらない。しかし、気持ちの切り替えになった。

 やはり起きようか。

 横たわっているのが苦痛になってきたので、俺は寝床を出て、顔を洗い、着替えをした。鏡を見てみる。まずまずだろう。何か食べて、コーヒーでも口にすれば、寝不足の冴えない(つら)は消えるはず。

 部屋中のカーテンを引き、房止めで留めて、窓を開いて回った。街の喧騒と朝露の名残りを一切感じさせない、夏の空気が入り込んでくる。

 窓辺から外を眺めていると、扉を叩く音がした。扉を開けるまでもなく、マダム・メイエが朝食を運んで入ってきた。

「お早うございます」

 俺は書斎へ行って挨拶をした。マダム・メイエは俺がまだ寝室にいると思っていたのか、足を止めた。持っている盆を揺らすことなく、マダムは朝の挨拶をした。

「お早うございます。お目覚めでしたか」

「いえ、着替えを終えたばかりで、丁度良かったです。いただきます」

 無駄のない動きで朝食を置き、マダムは下がっていった。パンにコーヒー、野菜を煮た物を雑に盛った一品、昨晩あたりの野菜スープの余りをすくって皿に乗せた感じだ。いただこう。

 腹が減った気はしていなかったが、食べ始めるとそうでもない。食が進む。ゆっくりとコーヒーを飲み干した。これで紳士らしい余裕が出ただろう。大使館へ行っての報告を済ませて、『ティユル』に寄りたい。いや、先に『ティユル』に行きたいくらいだ。

 ベルナデットが夕べオペラ座に来ていたとしたら、そう思うと気が気でない。

 来ていなかったかも知れない。来ていても俺に気付かなかったかも知れない。それなら慌てて訪問するのは滑稽だ。

 考えがあちこちに飛んで、乱暴に運ばれて、今にも零れんばかりになっている桶に汲まれた水の如く、揺れ動き、心臓が跳ね上がりそうだ。

 今一度、大きく息を吐いた。

 まずは仕事を終わらせよう。その方が建設的だ。

 外出の支度をして、マダムに声を掛けて、大使館へ赴いた。

 昨夜の首尾に不満足だったからか、寝不足からか、ゴルツ大使は今日俺に用はないようで、報告書のみ提出せよとのことだった。大使と参謀本部への報告書をまとめ、清書した。

「評判の半社交界(ドゥミ・モンド)の名花はどうでした?」

 ヤンセン曹長はラ・パイーヴァを指して言っているつもりらしい。ラ・パイーヴァが令名を馳せた年代にヤンセン曹長は巴里に赴任していなかっただろうとかれの年齢から考えつつ、印象的な点だけを答えた。

「大粒の真珠やダイヤモンドで着飾っていて、(まばゆ)かった」

「それだけですか?」

「ああ、あの首飾りは『カルティエ』で作らせたのかとか、そういった所が気になった」

「大尉は意外と女性みたいな観察をしているんですね」

 意外は余計だ。下手に容姿を褒めて世辞だとばれるよりも、身に付けている物を褒めた方がいいからに過ぎない。

「美容にいいと聞けばあらゆることを試しているそうだから、肌つやはいい。

 だがなあ、俺はああいった職業の女性とお付き合いするのに大金を積む気にならない。その所為だな」

 目の保養にもならないんですかと、曹長は残念そうに言って、俺からの報告書を確認した。

 時間が掛かったが、今日すべき仕事は一通り終わった。

 すでに心はコリゼ通りに馳せている。自然急ぎ足になるが、自らの歩みがなんとも遅く感じられる。

 慌てるな。『ティユル』に息を切らせて、汗だくで飛び込んでいっては、笑われて、何事かと怪しまれる。落ち着いて、涼しげに挨拶しなくては。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ