一
夏の朝、眠気と気怠さが身体に居座っていても、暑さから目が覚めてしまう。かといって道路の清掃係や食料の配達人が街を歩き回る、早朝ではない。既に太陽は高い位置に昇っているのが、カーテンの隙間から差し込む光で判る。
俺は横になったまま大きく伸びをした。しばらくは寝台から起き上がる気がしない。マダム・メイエに朝食は遅くと頼んでいるので、まだ扉を叩く音はない。
さて、このまま自堕落を決め込もうか。どうせゴルツ大使も似たようなものだから、大使館に赴くのは午後からでよかろう。どうせ昨晩はラ・パイーヴァの機嫌取りを俺にさせようというのが主目的だったはず。こちらはラ・パイーヴァからぜひ屋敷に遊びにいらしてちょうだい、一人でも、同伴者を連れてこようと何時でも大歓迎と、お愛想混じりでも仰せをいただいているのだから、それは叶えられている。
ヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵がレヴァンドフスカに目移りしないか、大使の目論見は副次的なもの。当てが外れで残念でしたとしか言いようがない。八つ当たりされないように、言動は慎重にはこぼう。
レヴァンドフスカは宿まで送り届けて直ぐに俺は大使館に馬車を返し、寄宿先に戻った。小娘は観劇と、同席していた大人たちの紹介を受けて、満足していたと、大使の報告するのはそれくらいだ。(参謀本部へはラ・パイーヴァの邸宅での宴席で、情報収集が可能であると重ねて伝える)
レヴァンドフスカと二人きりになって、侍女が飲み物を持ってくるわずかの時間、小娘は俺へ手を伸ばして顔を寄せてきた。さぞかし勇気を奮ったのだろう、真っ赤になっていた。小娘の唇が俺の額に触れ、じっと俺を見詰めていたかと思うと目を閉じ、唇を重ねた。風がそよいだかと思うくらい、かすめるような口付け。それでも精一杯の行動だったろう。小娘は決まり悪そうに座り直した。
「貴女の結婚が皆から祝福され、さいわいに恵まれますように」
俺は小娘の顎に手を添え、口付けした。未練を残すな。俺は貴女を好いていない。俺を早く忘れて、身分の釣り合った相手との人生を送れ。
小娘の化粧が付いたままになっていないか、口元を拭い、服が乱れていないか気にしながら、俺は離れた場所の椅子に腰を下ろした。小娘は扇で扇いだり、顔を隠したりしながら、黙って俺を見ていた。
天使が間を通り過ぎているのを無言で数えていると、やっとレヴァンドフスカは口を開いた。
「今晩の出来事は忘れないでしょう」
そこへ丁度侍女が紅茶を淹れて持ってきた。
「貴女はこれからの人生は長い。様々な出会いがある。今晩のことはこの紅茶と同じで、生きている中で何杯目か、判らなくなり、いつか記憶から消え去ってしまう」
レヴァンドフスカは首を振った。佇まいに見違えるほど大人びた美しさがあった。小娘からの願いで、所詮は戯言と自分からしてみよと、侮った。しかし、レヴァンドフスカは躊躇を飛び越えた。試すような真似をした、過ちだったと昏い淵から大きな波が押し寄せ、胸中が痛んだ。
女の決意を軽く見てはいけないと、改めて知らされた。
何も察していない様子の侍女がいなければ、こちらが圧倒されかねなかった。
「歌劇と違って、現実では悲しみだけで死に至らない」
「真剣な想いも、辛い境遇に落ちればくじかれ、冷めてしまうこともあるでしょう。でも、支えになることが一つでもあればと願うのです」
その想いを抱いてほかの男性と夫婦となって、果たして仕合せになれるのか、俺には何も言えない。
ひとたび神の前で誓ったからには、結婚の契約は守って生きて欲しい。守らなければ、夫も妻も、そして生まれてくるであろう子どもも不仕合せになる。
「お茶をいただきましたから、小官はこれで失礼します。ではフロイライン、ご機嫌よろしう。次に会うことがあるとしたら、立派な令夫人になられているのでしょう」
「ご機嫌よろしう、アレティン大尉。また、いずれ」
レヴァンドフスカは微笑んで、別れを告げた。
少女といえども女性は女性。軽んじてはならなかった。




