三
父と母の話をしよう。
アレティン家は元々平民で、商業を営んでいた。祖父が青年期から壮年期まで、大陸では戦乱が続いていた。祖父は徴用され、軍で戦った。
やがて、祖父は軍功と私財の寄付から最下級の貴族、騎士の称号を授けられた。
祖父が軍から退き、父が大学を出る頃には戦乱は鎮まりつつあり、平和を享受する時代が来た。平和と共に世は享楽的となり、祖父は本来の家業に戻った。祖父が軍隊時代に築いた人脈や知識を最大限に利用し、そして父にもその才があったのだろう。家業は軌道に乗り、投資は全て原資を上回って返ってきた。
父はふた親を見送った後も商いは飽きないの言葉どおりに働きつづけ、莫大な財を蓄えた。壮年に差しかかろうかという頃、父は財に見合った世間体を整えようと考えはじめた。
そんな時、父は恋をした。
長い戦乱の中、興隆する者があれば、没落する者もいた。
リンデンバウム伯爵家は領地の半ばを喪い、先祖伝来の品々を売り払いながら生活していた。
不惑を前にした父はリンデンバウム伯爵家に出入りの美術商と共に伯爵邸を訪れ、伯爵家の三女、マグダレナを見初めた。マグダレナは十五歳で、亜麻色の髪に青い瞳の美しい少女だった。
父は、リンデンバウム家の長女が、とある侯爵家との縁談が出ているのに支度金が不如意であること、倹約をしようと考えながらも当主は奢侈を止められないこと、などの生活事情を知っていた。
父は、オットー・フォン・アレティンは、マグダレナ伯爵令嬢との結婚と、伯爵家への援助を申し出た。
リンデンバウム伯爵は一も二もなく快諾した。長男は妹の身売りではないかと反対したそうだが、当主には逆らえなかった。長男はそんな父親に反発し、また自分の属する階級の堕落ぶりに幻滅し、後継の身を捨て出奔した。行方は知れない。
盾になってくれる長兄がいなくなり、誰も当主に意見するものはなくなった。マグダレナは翌年、三十八歳の父の許に嫁いてきた。
父はマグダレナを溺愛した。しかし、十六歳のマグダレナは女性らしい情愛に目覚めていなかった。年齢差、身分差を考えて、父は、いつか子供っぽさが抜け、互いにいたわり合う夫婦になれる日がくると信じて、マグダレナの我が儘を許し、贅沢をさせた。
母にとって夫は父親と変わらぬ年長者で、共に手を携えて生きていく相手というより保護者で、言いつけを守っていれば好きな物を買い与えてくれる便利な男だった。結婚するには早すぎたのだろう、と言うしかない。
そんな夫婦でも子は出来た。それが俺、オスカー・フォン・アレティン。マグダレナは少女のまま母になった。
長男を得た父はますます母に甘くなり、母は父を格下の相手だからと侮るようになった。
母は人形のように俺を可愛がったが、疲れたり、飽きたりしたらすぐに乳母に俺を渡した。父は母を責めはしたが、母の表面上の反省にすぐに叱責を止めた。母は悪い意味で夫を操縦する術を身に付けた。
莫大な財とそれに見合う邸宅、家財、妻。それらが揃って父は仕合せだと信じていた。
悪い巡り合わせが回ってきた。母が女性らしい情愛を持つようになったが、対象は父でも俺でもなかった。
アルウィーゼという名の没落貴族出の役者だったという。リンデンバウム伯爵の趣味の一つに芝居道楽があった。母もその所為か芝居が好きだった。
贔屓の役者から挨拶を受けて、それから食事に誘ったり、舞台衣装を誂えてやったり。そこまでは貴族の道楽だ。父もほどほどにしておけと言う程度だった。
しかし、母は役者に恋をした。役者の演ずる理想的な恋人に恋をしたのか、アルウィーゼという役者自身に恋をしたのかは知らない。もしかしたら道ならぬ恋をした人妻という役柄そのものに恋したのかも知れない。
母は今更ながら、金に物言わせての結婚を申し出た父を恨み、俺を疎んじた。もう贅沢な暮らしは要らない、貧しくても愛する男性と一緒にいたいと願い、駆け落ちしようと相手の男に持ち掛けた。アルウィーゼは簡単に承諾し、母は有頂天になった。
結果は男の裏切りであり、母は多額の現金や宝石を奪われ、約束の場所で立ち尽くした。
母はアレティン家に連れ戻された。母は嘆き、離縁を申し出たが、父も伯爵家もそれを許さなかった。家から出ることを禁じられ、かつて侮っていた父から冷たい目で見られるようになり、母は心を閉ざした。
愛していたからこその憎しみだったが、父は自分に向けられるはずだった母の情愛が軽薄な男に向けられた故に荒れた。自分の価値を認めず、浅薄な行動をとった母を苛んだ。母に容貌が似ている俺をも疎んじた。
――おまえは生まれてこなければよかった。
俺が生まれなくとも断ち難い愛憎ゆえに離縁する気もなかっただろうに、何も知らない俺への関心を父は失った。そして、人生に全てに興味を失った。父には母への執着だけが残された。
乳母や当時俺付きだった執事見習いのディナスがいなければ、俺は家の中で捨てられていた。
父は母に対して決して暴力や悪罵を使わなかったが、無言のままで精神的に追い詰めた。母はいつしか飲食を摂るのが間遠になり、気が付いた時には、骨と皮のようになっていた。緩慢な自殺、と父は言っていた。
両親が仕合せになれなかったのは、父が想いを募らせたからといって、それこそ身売りをさせるように母との結婚を成立させたからではないのだろうか。少女だった母が自分の思うとおりに成長せず、自分を愛さなかったと責めるのは果たして正しいのか。
母が夫婦としての情愛を育てようとする努力を知らず、父に我が儘放題で散財させ、夫以外の男に心を寄せて、逃げようとしたのは愚かだったと切り捨ててよいものなのか。
自分の殻に閉じこもりきり、息子をかえりみなくなった両親。
俺には何も言えない。事情を知り、理解できるようになる前に、母も父も亡くなったから。