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君影草  作者: 惠美子
第三十章 男心は一つ所に落ち着かぬ
299/486

十六

 ホテルリーヴルに到着して、宿の者に言い付けて、部屋に案内させた。レヴァンドフスキ伯爵は北仏ノルマンディーのトゥルーヴィルへ泊まり掛けでおらず、兄は本当に天体観測に出掛けているらしく不在で、宿の係が部屋の灯を点して回り、侍女のテレーザが宿泊部屋の応接室を確認する。

 俺はレヴァンドフスカを応接室の長椅子に座らせた。

「長い時間ご苦労様でした。オペラ座では大分眠そうだったから、早く休むといい」

「劇場で居眠りしてしまったから、かえって今は眠くなくて困ったわ」

 また始まった。俺は宿の者に心付けを渡して下がらせた。侍女のテレーザにも渡した。

「お嬢さんの気紛れはいいから、早く寝支度を整えてやってくれ」

 はい、と音に飛びあがる子猫みたいな返事をした。

「いいえ、テレーザ、わたしは喉が渇いたから、先にお茶を淹れてきてちょうだい。アレティン大尉の分もよ」

 俺とレヴァンドフスカの顔を交互に見遣って、侍女は雇い主の方に従った。

「直ぐにお持ちいたしますので、少々お待ちくださいませ」

 と下がった。

 俺は小娘を睨みつけた。

「貴女は経験から学ぶのを知らないのか」

 小娘は澄ましている。

「知っています。テレーザは直ぐにここにお茶を持って戻ってきます。何も警戒する必要はありません」

 先日脅して少しは懲りたかと思っていたが、相変わらずだ。

 勿論俺がこの小娘にどうこうする気は全くない。要らぬ誤解を生みたくないだけだ。

「お茶が来るまで、わたしは独り言を言いますから、大尉は聞き流してくださればいいの。お父様やお兄様は相手にならないし、テレーザは意味が判らないでしょうから、多少は女性にお詳しい方が側にいてくださると嬉しい」

 聞き役に俺が相応しいと思うのは勝手だが、俺が同意や共感を示さなくても嘆かないで欲しい。

「ではどうぞ」

「この夏、巴里での滞在を終えて伯林に帰ったら、父はわたしの縁談を考えようと言っています。子爵以上の爵位がある人物がいいと、あれこれ考えているようです。兄はわたしの結婚相手は貴族であれば問題ないだろう程度しか関心がありません。

 わたしは結婚について具体的な意見も希望もありません。それこそ、爵位があるに越したことはないけれど、持参金が幾らとか、相手の年齢がうんと上になるとか、年齢が近いとか、軍人さんかとか、文官、芸術家肌とか。

 ふとアレティン大尉のような方との生活ならと、思い描くことができました。でも、大尉は騎士で男爵にも手が届いていない。だからわたしは父にアレティン大尉は? と訊けませんでした。それに大尉はわたしを好ましいと思っていらっしゃらない」

 それくらいはレヴァンドフスカも判っていたか。俺に爵位がないより何より、俺が小娘に関心がないのだから、父親には我が儘を言い出すこともできない。

 祖父の言うままに父に嫁いだ母の心情を慮る気はない。家柄重視の結婚は少女に夢見る隙を与えない。

「だから、伯林に戻ったら、父の勧めに従って、決められた男性と結婚するでしょう。

 でも、アレティン大尉にお願いがあるのです。大尉には不本意かも知れませんが、わたしにとっては大切なお願いです。笑わないでください。

 一度だけでいいんです。一度だけ、わたしに口付けしてくださいませんか」

 真剣な申し出だけに、こちらも安請け合いは失礼だ。俺はレヴァンドフスカが座る椅子の側に(ひざまず)いた。

 レヴァンドフスカは心許ない視線をくれた。

「貴女からのお願いだ。どうぞ貴女のお好きなように」

 俺からの答えに目を(しばたた)き、小娘は深呼吸を繰り返した。口付けしたければ自分からと投げ掛けられ、早くしなければ侍女が部屋に戻ってきてしまう。

 レヴァンドフスカは素手で火中から大事な落とし物を拾おうとするかのように、恐る恐る俺の肩へと腕を伸ばした。

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