十三
「だからといってワーグナーが作曲してはくれないでしょうね。ワーグナーは別のモチーフを使いたいようですから」
ワーグナーか、あまり聴いた経験がない。ミュンヘンに行けば機会があるのだろうかと、そそられる。
フロイライン・セッケンドルフが続けた。
「ワーグナーは北欧神話や中世騎士の伝説が好みでしょう?」
大使は機密事項でないからか、皮肉っぽく付け加えた。
「バイエルン国王もすっかりワーグナーの好みに染まって、婚約者に洗礼名ではなくてワーグナーの作品の女性の名で、手紙で呼び掛けるそうです。エルザ、ブリュンヒルデ、と」
「バイエルン国王は夢見がちのようですから」
ヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵までが言い、ラ・パイーヴァは扇で顔を隠しつつ、笑っているようだ。
レヴァンドフスカは不愉快そうな顔を隠さなかった。
「いくら国王様だからといって、婚約されている公女様に失礼ではないでしょうか?」
「国王なりに親愛の情を示しているのでしょう」
レヴァンドフスカは納得しない。
「そうですか? 男の方は婚約している女性や奥様から、ロミオとかアルフレッド、アルマンと呼ばれて嬉しいのですか? 公女様もワーグナーの音楽がお好きで、お芝居ごっこをするのがご趣味なら一緒に楽しまれているでしょうけれど。ゴルツ大使閣下、ミュンヘンではそのように噂されているのですか?」
淑やかな会話術なんて全く気にしていない、感じたままを口にしている。子どもっぽいかも知れないが、女性としたらもっともな疑問だろう。近しい男性からなんと呼ばれるのか、二人の親しさや力関係がはっきりと現れる。
ここはなだめるべきと判断して、穏やかに大使は小娘の疑問に答えた。
「噂としては国王が未来の王妃を歌劇の姫君の名で呼ぶとしか伝わっていないのです。ゾフィー公女が国王に対してどのように返事しているかまでは耳に入ってきていません。きっと国王は物語世界がお好きなのだと、微笑ましく思っているのではないでしょうかね」
レヴァンドフスカは疑わしそうだ。
俺もバイエルンのヴィッテルスバッハ公爵家を詳しく知らないので、公女が国王の稚気を好ましく感じているかなど判らない。婚約者同士、仲良くお互いをワーグナーの歌劇の登場人物に擬して楽しんでいるのなら、二人の問題だ。惚気として聞いておけばいい。しかし、バイエルン国王のルードヴィヒ2世は女が苦手、男の方が好み。君主の義務としての結婚であれば、公女は自分は世間体の為の存在と、高貴な者の責務と割り切っているか、不安を感じているかのいずれかだろう。
「わたしは将来結婚する殿方から、違う名前で呼ばれたら、嫌だと申し上げてしまうかも知れません」
小鳩の真剣な物言いに、ラ・パイーヴァは白鳥のように落ち着きがあった。
「もしかしたら公女様はお嫌かも知れませんわね。
でも、女の顔は幾つもあった方が楽しめます。親に従順な娘の顔、夫に尽くす妻の顔、機知に富んだ会話でもてなすサロンの女主人の顔、それぞれ相応しい態度があるでしょう。特に公女様は結婚なさったら、王妃様になられる。国民の母の振る舞いをなさらなければなりません」
ラ・パイーヴァは交際する相手ごとに違う態度で臨んでいたのだろうか。
レヴァンドフスカは首を傾げて、考え込んだ。




