十一
舞台ではヴェルディの『ドン・カルロ』の幕が上がる。シラーの詩を元にした歌劇だ。フランス王女がスペイン王室に嫁ぐ取り決めがなされるが、その相手が最初王子のカルロだったのだが、父のスペイン国王に変更される。
王室の人間が政略結婚を結ぶのは国益の為至って当然で、婚約の段階で、国々の情勢や条件次第で相手が何回も変わるのも珍しくなかった。
歴史の上でもフランスのアンリ2世の王女エリザベートがスペイン王子のカルロスと婚約していたが、父王のフェリペ2世の妃でイングランド女王のメアリ1世が死去した為にエリザベートは王子よりも現役の国王の妻にと、スペインに渡った。お芝居のように婚約中にカルロスとエリザベートが会って、結婚に期待するはずがない。歴史で伝わるカルロスは身体的に恵まれず、賢いとも言い難かった。しかし父に逆らった息子が獄に入り、若すぎる死を迎えた史実が、後世の人間の想像力を刺激した。
箱入りの王子、王女がお忍びで庶民の生活や信仰を目の当たりにしての心情や、たまたま出会った二人が婚約者同士だったと知って、高揚していく気分など、有り得ないだろうと思いつつ、奏でられる楽の音、歌声に聴き入ってしまう。王女の結婚相手が変更になったと報せが来て、悲劇の予兆となる。
舞台はスペインの宮廷に変わり、王妃は夫である王を愛せず、また王子は王子で父の妻になった王妃への気持ちを消せない。また、領内での宗教問題も持ちあがる。
聴きどころの多い起伏のある芝居だが、上演時間が長い。おまけに宗教問題を含む作品となっているので、同じく万国博覧会で披露することとなった『ジェロルスタン女大公』と人気が開いてしまって気の毒だ。こちらも同席する人間の様子に気を遣いながら観劇するには向かないと、眠そうにしている小娘をつねりあげたくなる。
幕間、寝惚けたように顔を上げて、周りを見回す小娘に、まだ途中で続きがあると教えた。小娘は実に残念そうに、そうなのと呟いた。絵空事でも悲恋に涙する乙女の構図とはなかなかいかないものだ。未婚の若い女性が夢見がちなんて誰が言っているのか。現実に存在している女性は若かろうが、年齢を重ねていようが、お喋りだし、平気で弱音を吐くし、間食が好きだ。世間を知らないうちは思い込みが激しいから、扱いに困る。
そんなレヴァンドフスカをラ・パイーヴァは可笑しそうに観察していた。ラ・パイーヴァはレヴァンドフスカが簡素にまとめているのとは対照的に、宝飾店の飾り付けかと見紛う重々しい装いをしている。鬘を足しているのだろう髪にダイヤモンドの髪飾りを数ヶ所に付け、大粒の真珠の耳飾りに、真珠の腕輪、真珠とダイヤモンドとエメラルドを幾何学的に散りばめた首飾り。淡い黄を金色に輝かせる繻子織に緑や茶の色合いの布地を上手く組み合わせた意匠のドレス。大地母神の如く貫禄である。
俺よりは一回り年上、ヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵と同年配と見えるフロイライン・セッケンドルフは夏向きと考えたのか青で色調を揃えている。淡い色合いのドレスで、衿と袖口を濃い青のリボンで括るような意匠にして、サファイアが耳元と胸元を飾り、藤色のショールが落ち着きを加えている。
男たちはご婦人方の背景色に過ぎない。だが、古着屋や百貨店での出来合いではない、洋裁店で誂えた礼服を纏う。それはボックス席に座る者の共通である。
次の幕が開くまでのしばしの時間、席から離れ、手足を伸ばしたい。小娘の目を覚ます為にもどうするか尋ねた。
「ええ、少し違う空気の所に行きたい」
ではそうしましょう、と大使と伯爵に断りを入れて、小娘の手を取り、席を立った。
ロビーに出て、レヴァンドフスカは深呼吸をした。
「眠いか?」
「観劇の間お喋りしてもいいと言われたとしても、あの方たちと何を話したらいいと思う?」
確かに彼の女には難題かも知れない。
スペインのフェリペ2世とその妃たちについて歴史ドキュメンタリーの番組を観たことがあります。フェリペ2世の三番目の妻がフランス王女のエリザベート、フェリペ2世の最初の妻との間の息子がカルロスで、エリザベートと同じくらいの年齢。フェリペ2世はイングランド女王エリザベス1世やスコットランド女王のメアリ・スチュワート、フランス王太后カトリーヌ・ド・メディシスと同時代の人。
実を申しますとヴェルディの『ドン・カルロ』は未読、未聴です。
原作の詩が岩波文庫にあると本屋に行きましたら、『ドン・カルロス』があったんですけど、著者名がシルレルとなっていて、怖気づいて、手に取れませんでした。シルレル……、野坂昭如が大昔ウイスキーのCMで歌っていた歌を思い出しました。どうして著者名がシラーじゃないんでしょう。
シラーの『ウィリアム・テル』も未読、ロッシーニの歌劇は序曲しか聴いたことがないです。




