六
女の自尊心の最も尊敬すべき源泉は、何か早まったことをしたり、また女らしくないと思われるような動作をして、恋人からさげすまれはしないかという恐れである。
『恋愛論』「断章」四十五 スタンダール 大岡昇平訳 新潮文庫
この家の女性陣から顰蹙を買っては『ティユル』に来られなくなってしまうので、ベルナデットが部屋に入れてくれたので、それで満足しておくことにする。
はっきりした予定はまだだがゴルツ大使から観劇に付き従うよう命じられたから、次に会う約束は決められないと伝えた。ベルナデットは仕事なら仕方ないわねと、悩まし気に唇を動かした。
誘惑を感じて、ベルナデットを抱き締め、口付けした。抵抗なく、受け入れてくれ、甘い甘い、ひとときだ。
喘ぎながらベルナデットは、あなたが好きだと口にした。言葉の温もりが胸に沁み、同時に眠りから叩き起こされたような揺らぎを感じた。
――彼の女といると時間も職務も忘れてしまう。俺はこんなにも彼の女を欲し、見苦しいまでに執着している。俺は彼の女の好意に値する男か。
俺は、俺は……。
返事が無く、固まった俺にベルナデットは居心地が悪そうに見上げた。素直に打ち明けて寄り添おうとしてくる彼の女に応えなければならない。
「俺はあなたに誠実でいたい」
そう答えて、腕に力を込めた。
ベルナデットと離れられない。
俺にできるのは彼の女に、彼の女の家族に誠実に接し続けるだけ。やがて熱が冷め、傷付け合う日が来たとしても、ベルナデットとラ・ヴァリエール家への保護は忘れない。
俺の胸で夢見るように安らいだ顔を見せてくれるベルナデット、誰よりも、何よりも大切で、海底の貝に隠された真珠の如く、ずっと秘しておきたい。
ベルナデットを手の内に仕舞い込めたら。だがそんなことはできない。巴里で彼の女は家族と洋裁店を営むのがたつきの道であり、人生の喜びである。それを止めされたら、ベルナデットはベルナデットでなくなってしまう。彼の女自身の意思や希望が消え失せたら、一体どうなってしまうのか。魅力と活力を損ねてしまうどころではない。知性もなく、自分で何も決められずに流されるままの女性は、俺には何より嫌悪の対象だ。ベルナデットをそんな女性に貶める真似ができようか。
「先がどうなるか判らなくても、あなたのその気持ちが嬉しい」
俺が何を考えているか知らず、誠実でいたいと言われて、ベルナデットはうっとりとしている。モン・シェリ、マ・シェリと、「いとしい人」とフランス語で既に呼び合っているのに、今更俺は何に気付いて、何を恐れている?
俺が人の情を知らない――いや信じようとしない人間だからか?
そんな男と露知らず一心に縋ってくる真直ぐなベルナデットの心身を受け止めていいのかと自信が揺らいでいるか?
女に捕まえられた。そして、俺も女を捕らえた。古今東西繰り返される事象。
踏み出した道は後戻りできない。
リザやアグラーヤは思い出の中にいるが、それは既に実家の書斎にある少年時代に読み耽った愛読書の同様に、懐かしいだけの存在。
ベルナデットは俺のようなろくでなしを好きと言ってくれた。感謝の念が深く募る。しかし自尊心が邪魔して、口にできない。
真夏の日暮れ時だが、暑さも汗も不快に感じない。全身で感じる温かさは心地良い。
明日に命を落としても、関心を失う日が来るかも知れなくても、流れる大河の勢いを留める術がないのと同じく、今ベルナデットを求める気持ちは捨て去れない。




