四
お客のご婦人がお付きを連れて店を出るまで、二十分くらいだったが、一時間はたっぷり経過していたような気分になっていた。ルイーズが知らせるまでもなく、お客様を店先までお見送りしたので、ベルナデットたちは俺の姿に気付いた。
「お待たせしてごめんなさい」
「いいや、仕事中に急に来たのだから、こちらこそ邪魔をして済まない」
改めての挨拶だ。
「ご機嫌よう、ご婦人方」
「こんにちは、ムシュウ」
マリー゠アンヌは一定の距離を置いて、ベルナデットは近付き、頬を寄せた。
「お約束のお客様は今日はもうおりませんけど、上に行った方がいいんじゃないかしら?」
マリー゠アンヌがそう言ってくれた。
「有難う。ではお言葉に甘えてそうさせてください。伯母上も上にいらっしゃるのですか?」
「ええ、顔だけでも見せていってください」
「先に失礼して、ごめんなさい、アンヌ」
姉妹は姉妹なりに色々とあるのだろうと、一人っ子は感じるが、判らない。それよりもベルナデットを独占したいと、勝手な気持ちばかりが先に立つ。階段を昇って、伯母のいる居間に行って、一通りの挨拶と簡単な近況や天候の話をする。伯母は相変わらずゆったりとした品の良さと美しさを保ち、人は生まれではないと感じさせる。ただ娘にはあまり余裕を見せられないようだ。きっと親は子にそのように対してしまうのだろう。
「ついね、以前からのお客様がいらして、ベルナデットがあなたとお芝居見物に行った話をしてしまったの。
羨ましいとか、そんな気分ではなかったのだけど、お客様からあなたも遊びに行ってみたかったのでしょうと笑われてしまった。
そうだったかしらと思い返したわ。まあ、わたしの若い頃は確かに遊びに行く時間がなかったようなものだから」
伯母は若い頃から働き詰めで、一人でマリー゠アンヌやベルナデットを育ててきたから、仕事や顧客との話の為の勉強はしてきたが、娯楽を楽しむ暇はなかったのだろう。それを思うとご機嫌伺いは欠かせない。
「そうしたらね」
と伯母は続けた。
「お客様のお宅では劇場にボックス席を年単位で借りていらっしゃるから、今度ご主人がいらっしゃらない日に一緒にお芝居を観ましょうとお誘いくださった。ボックス席で、お客様と息子さん、こちらの家族四人全員座れると言ってくださっているの」
気前の良い顧客だ。伯母とは付き合いが長く、単に仕立て屋と顧客といった枠を超えた親しさがあるのかと、微笑ましい。もしかしたら、施しの驕りが含まれているのかも知れないが、同じ階級の者が多数出入りする劇場に連れていってもいいと申し出てくれるのだから、伯母の信用と向けられる好意がどけだけ大きいかと、俺まで誇らしくなってくる。
「それは素晴らしい。お受けしたのですか?」
伯母は照れていた。
「お義理で仰言ったのかと、お断りしたのだけれど、是非にとあちらも熱心になられて、ご都合の良い時にお声を掛けてくださいとお返事しました」
ベルナデットは母の人脈をどう捉えているのか、嬉しいのかどうか読み取れない、難しい顔をしている。
「あのマダムのお宅でボックス席を年間で買い取っているのはヴァリエテ座でもコメディ゠フランセーズでもなくて、オペラ座だったと記憶しています。お芝居といっても、イタリア語やドイツ語の歌劇だったらどうするの?」
そちらの心配か。しかし、言葉が聞き取れなくても粗筋を知っている程度でいい、後は舞台を観て、音楽を聴いていれば惹きこまれていく。大丈夫だ。
「お招きいただいたのなら、どんな演目だって、一張羅を着こんでまいります。あなたたちも一緒にね。ルイーズが居眠りをし始めたら、つねってやってちょうだい」
「居眠りし始めたとみたら、お互いつねりっこだわ」
ベルナデットと伯母は笑った。俺も笑いながら、オペラ座か、と不安を覚えた。いつになるかは確定していないが、ゴルツ大使から婦人同伴で付いてこいと命じられていたのはオペラ座だった。
伯母の顧客が借りているボックス席、オペラ座以外にもあるといいのだが、ここで訊いてみても判るまい。違う日に観劇するよう祈ろう。