十一
時間は止まった。世界は二人だけしかいない。
俺は彼の女に全てを与え、俺は彼の女の全てを受け取る。
ベルナデットが胸にもたれるように身を寄せた。
「わたしもあなたと離れたくない」
壊れ物のようにそっとベルナデットの肩を抱き寄せた。
遠くで子どもが母を呼ぶ声がした。ぱたぱたと駆け足の音が響いて、ここは公園だったと現実に引き戻される。寄せ合った顔を離した。頬に赤味が差しているのは西日の所為だけではない。
決まり悪いと感じながら提案した。
「食事に行こうか」
「そうしましょう」
腕を組み直し、店に向かった。
選んでいた店は大衆向け食堂だが、二階に個室があって、事前に予約していたので、名を名乗ると直ぐに通してくれた。品書きを見て、芝居の最中に眠くなっては大変だから、簡単にしようと二人で申し合わせて、スープと肉料理に野菜の付け合わせにしようと決めた。
女性と差し向かいで入るにはどうかと思っていたが、個室で邪魔されないこともあって、雰囲気は悪くない。学生街の店だから一階では質より量の献立があるが、ここに並べられたのは、品よく盛り付けられた品々で、味わいも良い。このままゆっくりとしていたくなるが、その次がある。時計を見ておかなくてはならない。
「母にお芝居の内容を教える約束をしているから、台詞の一つくらい覚えられるかしら?」
「伯母上はお芝居が好きなのか?」
「観に行くよりも、何所の劇場でこんなオペラやお芝居をしていると新聞や張り紙、チラシで情報を知るのが好き、と言った方がいいみたい」
「それも楽しみ方の一つかな」
「田舎で育ったし、巴里に出てからも働き詰めだったから、実際に観に行けない代わりにそうして気を紛らわせていたんだと思う。わたしの父と付き合っていた時にはよく連れていってもらっていたみたい。折角連れていってもらったのにラシーヌの悲劇で、イマイチ盛り上がらなかったと話していたわ。だから今回ロマンス劇だと聞いて、ちょっと悔しそうだった」
冗談だろうか? それとも母でも娘を羨むか。
リンデンバウムの祖父は芝居好きだったから、父もそれに倣って好きな女性を誘ってみたのだろう。俺も同じだ。伯母も亡き伯父と腕を組んで、きっと胸躍らせて出掛けたに違いない。
「伯母上の機嫌を損じたくないから、今度何かに誘わなければいけないか」
「あまり気前よくしなくてもいいんですよ」
娘は気楽にそう考えるのだろうが、若い頃にあまり遊べなかった伯母が昔を思い出してやきもきしていたら、こちらがやりにくくなる。頑なになられたら困るし、今までラ・ヴァリエール家に何もしてやれなかった分を取り戻す積りで、愛想は良くしておこう。
「お体の具合が悪いのでなければ、少しのお出掛けくらい皆でしてもいいのじゃないか? こちら側は一人ではなく、アンドレーアスを連れてくる」
あの陽気で面白い男性ね、とベルナデットは賛意を示すかのように肯いた。あいつを荷物係にして、公園を散策して外で昼食を摂るなら、金も掛からず、全員で行ける。あいつは嫌だと言ったりしない。丁度いい。
さて、食事が済んだし、開演時間が近付いてきた。オデオン座に移動しよう。