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君影草  作者: 惠美子
第二十八章 短い夏の夜
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 なんとも気忙しくもどかしい日を過した。早速オデオン座で土曜日の夜の公演の席を押さえて、近くに良い食事の場があるかなど調べてみた。学生街(カルチェ・ラタン)に近い場所柄か、大衆食堂が多い。ブールヴァールのような雰囲気、例えばグランドホテルのカフェ・ド・ラ・ペのような店はないらしい。来る客が高い献立や酒を頼めないのだから自然にそうなる。

 それでも騒がしくない店、奥まった席を準備できる店がないかと周辺で晩飯を摂りながら、週末辺りの雰囲気を店員に尋ねて、候補を決めた。芝居を観る前の腹ごしらえなのだから、長居せず、それでいて慌てて食べ終わらなくてもいい、混まなくて、女性連れでも好奇や嫉妬の眼差しを向けられない、多少は改まった食事をしてみたい学生や少壮の学者が来るような店。

 ベルナデットと約束を交わした月曜日は好天だったのに、翌日から曇りはじめて、遂に雨が降り出した。止んで曇かと思えば、また降り出す。金曜日は強い雨で、何所にも出掛ける気がしないほどだった。この勢いで土曜日も降り続いたら、と、どうなるものでもないのに、落ち着かなかった。

 土曜日の朝、カーテンを開けて安心した。

 昨日までの雨が嘘のように晴れ、眩しい陽光が注がれていた。多少蒸し暑くなるだろうが、これで濡れた街路は乾くだろう。二人で出歩く時間帯には、泥はねを心配する必要は無くなる。

 まるで誕生日の祝いのお菓子を待つ子どものようにそわそわしている。自分でも可笑しいのは判っている。水面を叩いて乱して遊んでいる、蛙や小魚には迷惑な悪戯者。俺は蛙や小魚であり、悪戯者である。

 浮き立つ期待は苦痛にも似ている。

 心を焼くように熱くし、また恐れを抱かせる。ベルナデットと共にいたい、彼の女に触れたいと激しく願い、彼の女も同じ想いを抱いてくれているだろうか、もしかしたら俺とは少し違ったことを考えているかも知れない、彼の女の想いを裏切ったら烈火のように怒りはしまいか、二度と会いたくないと言われはしまいかと、臆病にもなる。

 ベルナデットの涙は見たくない。ベルナデットの辛い話を聞いたからだけではなく、彼の女をいつも仕合せそうに微笑ませたい、傷付けたくないと、緻密な細工のある箱をこの手で組み立てていくかのように考えている。一つ一つ、貴石を貼り合わせていくように、順序立てて。

 不可能事であるのに!

 神ならざる俺にはベルナデットの心の奥底まで読めはしない。おまけに女性は気紛れ。

 俺や彼の女の心もいつしか陽に晒された広告の張り紙同然に、何もかも色褪せてしまう日が来ないと誰が言えよう。

 それでも、これから二人で過す時を、出走を控える騎兵のように待っていた。渇きを癒す泉が、もうすぐ手に届く。

 ベルナデットは俺の為に装いを凝らしているだろう。

 俺も彼の女を喜ばせ、夢見心地にしてやる為に、きちんと身なりを整えよう。抜かりなく準備をしてきたのだ。

 数々の厄災と一緒に箱に詰められていた希望。最後に残った希望が人を愚かしく明るい未来を信じさせ、動かしていく。願わくば絶望にならず、また新たな希望を生むよう、今晩の首尾を祈るしかない。

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