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君影草  作者: 惠美子
第二十七章 芝居か現(うつつ)か
263/486

十一

 知性的といっても気位高い、気取ったふうではなく、どことなくおっとりと構えた、口や頭の軽い印象が全くない女性だ。

 人の好さそうな貴婦人は、巴里の芝居について俺に親切に教えてくれる気になったようで、『ジェロルスタン女大公』のオッフェンバックは軽快だとか、オペラ座の『ドン・カルロ』はシラーの詩がどうとか話し始めた。どちらも観た演目なので、こちらも感想を言いながら、巴里のご婦人の意見を聞いた。フランス語の台詞回しを楽しむ芝居をまだ観ていないと言うと、あらまあ、と扇で口元を隠した。

「先月からコメディ・フランセーズでヴィクトル・ユゴーの『エルナニ』を上演しています。今まで上演が控えられていたのに、これで帝政批判が出てきたらまた一騒ぎになりかねません」

 作家のヴィクトル・ユゴーは帝政に反対して、どこかの島に暮らしてるのだっけ?

「オデオン座ではジョルジュ・サンドのお話を上演しています。そちらの方が余程面白いです」

 と貴婦人は付け加えた。

「それは興味深い」

 オデオン座の名前を聞いて返事をすると、貴婦人はまた、あらまあと言った。

「外国の男性がジョルジュ・サンドと耳にして興味を持ってくれるとは珍しい」

「ジョルジュ・サンドの若い頃の行状はともかく、今はご高齢ですし、実際よく読まれる作品を出版されているのでしょう?」

「ええ、そうです。田園的な恋物語が多いですから、デュマやユゴーと作風が違っています。それで男性が敬遠され勝ちです」

「牢獄に長年つながれた話や愛国心で戦った話もいいですが、たまには現実から離れるのもいいかも知れません。

 昨年小官は前線におりました。お芝居に真実味を求めないで観たい時もあります」

 貴婦人はうんうんと肯いた。

「そうでしたら、案外大尉さんも楽しめるかも知れません」

『ヴィルメール侯爵』とオデオン座での演目を教えてくれた。

 貴婦人方の輪から離れて、ゴルツ大使が皮肉っぽく言ったものだ。

「演目がモリエールの『女学者』でなくて良かった。その前までオデオン座に掛かっていたらしい」

「見逃しました。残念です」

 これは皮肉の応酬ではなく、素直な感想だ。コメディ・フランセーズでもオデオン座でも色々面白そうな演目が並んでいるじゃないか。仕事で歌劇ばかり回っていたが、こちらも観に行かなくては巴里に居る甲斐がない。

「早速遊びに行く算段だな」

 大使にはすぐ顔色を読まれる。というより、芝居好きに教えてくれているのだから、観に行けと命じているのと同じだろう。

「オデオン座にはモルニー公爵が後援していた若い女優がいる」

 モルニー公爵は一昨年亡くなったナポレオン3世の異父弟だ。

「モルニー公爵のご落胤ですか?」

「いいや、確か公爵が親しくしていたドゥミ・モンドの女性の娘か姪と聞いている」

 半社交界(ドゥミ・モンド)、堅気の女性が出入りしない社交場の女性。つまり高級娼婦。その娘か姪は、女優の道に進んだ。母か叔母の後を追うよりはまともだろう。

Sarah(ザーラ)、いや、サラとか言ったかな。ただのお気に入り程度か、実力派か、観てきて確かめたらいい」

「そうしましょう」

「貴官は現実を忘れたいようだから、夢を見てくるのもいい。

 サラ本人は貴種のご落胤ではないそうだが、サラはベルギーの王室の一員との間に男児がいる。周知の事柄だから、オデオン座での調査の必要は無い」

 言いたいだけ言ってくれる。上司で親ぐらい年齢が上だから、反発心は一呼吸おけば静かな引き潮となる。そして、バラバラになっていた飾りのひとかけらが見事に嵌め込まれたような、納得した気持ちが胸にあった。

 そうか、この夜会で(うつつ)を忘れて、小娘や同期を慮りながら、心を彷徨わせていたのは俺も同じ。舞踏や、機知に富んでいるようで実のない会話、咲き誇る花々とせわしない蜜蜂の行き交う舞台の一役者。

 白々と夜が明ける。有明けの月は青ざめて太陽に空を明け渡す。芝居の幕が閉じる。

 明るさの下には美しかろうが、酷かろうが、現実が晒されている。光が差せば、影も差す。

参考文献

『ベル・エポックの肖像 サラ・ベルナールとその時代』 髙橋洋一 小学館

『愛の妖精』 ジョルジュ・サンド 篠沢秀夫 訳  中公文庫

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― 新着の感想 ―
[良い点] ああああああ。やっぱり良いです。ご無沙汰をお詫びします。『君影草』。今日は、満月を見た狼人間のように無性にこちらを拝読したくてなりませんでした。相変わらずの知識量に圧倒されます。勝手ながら…
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