二
夜の冷気を心地良く感じるのだから、やはり酔っているのだろう。歪な月を眺めていると、俺に近付いてくる気配がある。ただの通り掛かりなのかと、姿勢を変えずに全身耳になる。しかし、相手は存在を示すように扇を開き閉める音を大きく立てた。気にし過ぎたか。
「ご機嫌よう、ヒヨコさん」
背後から掛けられた声に、俺は社交用の笑顔で振り返った。
「ご機嫌よろしう、ポーリーヌ」
マダム・ド・デュフォールの姿にゆっくりと目を楽しませ、俺は続けた。
「今夜はいつにも増して優雅でお美しい。私からの贈り物を気に入っていただけたようで、貴女の側近くにいられる琥珀の花が羨ましくなります」
マダム・ド・デュフォールは嬉しげだ。
「気付いてくれました? いただいた琥珀のブローチの金具を付け替えて、髪留めにしました。この方が、わたしに向いていると思ったの」
「ええ、似合っています」
彼の女は亜麻色といっていい明るい色の髪だから、髪をまとめる装飾に琥珀を使ってもその色合いはアクセントとなって映える。
「お忙しいの?」
「それなりに。貴女は?」
「わたしもそれなりにね。バイエルンのあの王様、初めは男爵夫人をからかっているのかと思ったけれど、女性に不慣れのようね」
マダムは近くで様子を見ていたらしい。
「信心深い性格なのでしょう。来月に結婚する予定がありますから」
マダム・ド・デュフォールは口の端を下げた。
「まるで男爵夫人がメドゥーサか何かみたい。以前皇妃陛下が挨拶した時につい、両頬に接吻してしまったことがあったのだけど、その際もルードヴィヒ2世陛下はカチコチになっていたそうですって」
ウージェニー皇妃、いくらフランス女性でもそれは外交上の礼儀から外れている。夫と違って不貞行為をしなくても、それは愛想がよろし過ぎる。二十近く年上の女性から抱き付かんばかりに頬に口付けされても、単に容姿の優れた女性は見慣れているだろう。何せバイエルンの宮廷には祖父の美人画のコレクションがあり、ヨーロッパ随一の美貌を謳われるオーストリア皇妃エリザベートが親戚にいる。その妹で王家の分家筋、ヴィッテルスバッハ公爵の公女ゾフィーは王の婚約者で、出回っている写真を見る限り、素晴らしい美人だ。垂れ目の女性に魅力を感じなくても、王に罪はない。
それにルードヴィヒ2世は男性に惹かれるらしい。
「あれで結婚はできるか、他人事ながら心配になるわ」
「不仕合せな政略結婚の例を、我々は幾らでも知っているでしょう? あまり詮索しない方がいいですよ。女性が迫ってくるのを恐怖するようになったら困りますから、フランス宮廷で、バイエルンの王様に色仕掛は止めるべきです」
マダムは肩をすくめてみせた。
「あれは男性を落とすのに自信たっぷり男爵夫人が勝手にやったの。誰もバイエルン国王を誘惑するように試してみろなんて命じられている女性も男性もいない」
おや、フランス宮廷でも周知の事実か、それとも一応の可能性としてそういった人員がいるのか。ここは聞かなかったことにしよう。
「理想の女性はと男爵夫人に問われて、国王は彫刻の女性と答えたわ。突拍子もない回答に怯まずに、ギリシア神話のピグマリオンのようなご趣味なのかと重ねて訊いてみたら、彫刻を生身の女性にしてみたいのではない、彫刻そのものが理想と答えて、男爵夫人が呆れ返って引き下がった」
「エスプリのつもりなのでは?」
「それにしては下手ね」
「同感です」
明日の朝までにはフランス宮廷中にバイエル国王は変わり者、生身の女性を怖がって手も触れられないと広まってしまう。バイエルンの廷臣たちは何をしているのだ。南ドイツの大国のあるじが若さ故に普墺戦争での判断に迷いがあったと言われた上に、巴里で女あしらいを知らなかったと噂されて、未来の妻以外、愉快ならざる評判となる。