八
マリー゠アンヌの言葉に、少年の頃を思い出す。あの頃は気遣いをわずらわしく感じていたが、ディナスやフェリシア伯母が俺の成長を見守ってくれた。俺が今あるのはかれらや屋敷の者たちのお陰だ。身近にいて世話をしないでいても、俺も人の親だ。次の世代への指導役を期待されるようになってきたか。普段出入りしない場に連れていき、儀礼を教えるくらいお安いご用だ。
早くに両親を喪った俺の父や兄の代わりとも言えたディナス、やさしい眼差しと厳しさで対してくれたフェリシア伯母。甘さと苦さの混じった懐かしい気分にとらわれる。
「お嫌ですか?」
俺がすぐに口を開こうとしないのを、違った箇所に刺繍針を刺してしまったかと案ずるようにマリー゠アンヌが尋ねた。
「いいえ、子どもの時にアンドレーアスと悪戯をして叱られたのを思い出したのです。ベルナデットが今日の外出先に気を悪くしていないのなら、こちらも気にしません。私にとっても大事な姪と思っています」
経理担当をしているこの店の男性は、婦人服が好きと聞くし、女性ばかりの職場だからその性状を見越して雇っている可能性が大、あくまでも職場の一員で、家族の情や信頼が湧かない相手なのかも知れない。
父のいないルイーズの若い叔父代わりになって過してみるのは悪くない。
「そのように思っていただけるのは嬉しいです」
マリー゠アンヌは母の顔のまま安心した。女性の面を強く出してきたら、どれほどの魅力を発揮するか。ベルナデットの異父姉だと判っていても、興味がある。
いけないな。邪まな考えはそれだけで罪になる。ここでは真面目にいきたい。俺がリザから房事の手ほどきを受けたのと、少女が大人の世界に足を踏み入れるのとは全く違う。ベルンハルト伯父の愛した大事な家族、俺にとっても大切だ。戦場の狂騒や政治の生臭さ、駆け引き、生き馬の目を抜く諜報とは無縁で、正直でいられる円居の場。
「ルイーズがお兄さんと呼んでくれるのですから」
「本当に遠慮のない子でごめんなさい。母もついあの子には甘くなってしまって」
「あら、わたしだって厳しく言っていますよ」
先程の発言は滅多にないことだと強調しようと、マリー゠フランソワーズは娘に言った。娘と孫とでは接し方が変わってくるのはよくあるのだろうし、ルイーズはルイーズでねだり事をする要領を上手く心得ているのだろう。家族やきょうだいの人数が多いと年少の人間は可愛がられるそうだから、ルイーズはマリー゠フランソワーズが助け舟を出してくれると信じて同行したいと言い出したのかも知れない。
子どもでも女性は女性だ。侮れない。
さして待たされず、ベルナデットとルイーズは支度を終えて、姿を現した。
ベルナデットは淡い緑のドレスに濃い青の上着に同色の帽子、ルイーズはマリー゠フランソワーズの言った通りの白とピンクの布地を組み合わせたすらりとした服、赤いリボンを首飾りの代わりのように首に巻き、赤い帽子を被っている。赤味がかった金髪はそのまま下ろしている。少女だからそれでもいいだろう。
「首が苦しくないのかい?」
「コルセットに比べたらずっとマシ。苦しくなったらすぐにほどいちゃう」
ルイーズは鏡の前で念入りに位置を確かめながら結んだであろうリボンに、気付いてもらったと喜んでいる。お洒落を褒めてもらったと思い込んだのか、すぐに有頂天になる辺りが、まだ幼い。
「では、私は誰の手を取ればよろしいのかな?」
ベルナデットにわざと尋ねてみた。ベルナデットは、澄まして答えた。
「オスカーは子どもの手を引いてちょうだい。今日はわたしはシャプロン役ですから、後ろを付いていきます」
「迷子にならないでね、お姉さん」
「大丈夫よ。わたしはあなたみたいにきょろきょろしないし、オスカーはわたしを置いていったりしないから」
仲がいいのだろう。
「ではいきましょう、お嬢さん方」
「行ってらっしゃい」
「ええ、行ってきます」