三
「プロイセンの宰相は鉄面皮だ!」
リース大佐はこめかみを右手で押さえつつ、うめくように言った。それを見る俺は顎に手を当てたまま黙っていた。
「欧州の秩序だ、調停だと綺麗事を言いながら、うまうまと自国の領土を増やそうとしていただけではないか」
大佐の言葉は事実であるので、余計な口を挟めない。
「デンマーク王国は一度講和会議を蹴っての敗戦だが、シュレスヴィヒとホルシュタインの二つの公国があれで済むのか。アウグステンブルク公爵はいいように利用されて無視されている」
1864年の一月、両公国を併合しようとしているデンマークは国際秩序を乱していると、プロイセン宰相ビスマルクはオーストリアと協定を結び、デンマークに両公国の併合を明記した新しい憲法の撤回を迫り、撤回しない場合は武力を行使すると通告した。
ほかのドイツ諸邦が見守る中、通告を拒否したデンマークに対して、調停役を担っていると信じているオーストリアと野心あるプロイセンが二月一日宣戦布告、シュレスヴィヒ公国に侵攻した
プロイセン・オーストリア連合軍は優位に戦を進めていった。ユートラント半島、バルト海に臨むデュッペル要塞を陥落せしめ、四月下旬にイギリスの干渉により倫敦で休戦のための会議が設けられた。しかし、デンマーク側が妥協せず、徒労に終わった。戦闘が続き、一時はデンマーク海軍が奮闘したものの、結局はプロイセン・オーストリア連合軍が勝利した。
八月一日、維納で三国での暫定的な条約が結ばれた。
曰く、シュレスヴィヒとホルシュタインの二つの公国の主権はプロイセンとオーストリア両国に譲渡され、両国の共同管理下に置かれる。
正式な講和条約は日を改めて結ばれるそうだが、この条件が厳しくなることがあれ、緩められることはないだろう。
戦争の発端となった二つの公国の自治・独立は大儀名分に過ぎず、プロイセンは主権の及ぶ土地を増やした。オーストリアは帝国として調停者になろうとしたが、プロイセンに乗せられた形になった。共同で主権を得たといっても、ビスマルクがオーストリアに妥協や譲歩をするとは思えない。今後の条約の条文がどうなるか、新たな火種になるかも知れない。
我が国は内陸に位置し、海がないため、当たり前のことながら海軍がない。
プロイセンは陸軍主体だが、海軍もある。海に面した要塞を攻めるにあたって、プロイセンは新式の大砲を使用したと聞いている。
「リース大佐、プロイセンでは作戦の指示が混乱していたと聞き及んでおりますが、それがなければもっと早くプロイセンが勝っていたとお思いになりますか?」
俺の質問に、大佐は短く答えた。
「判らない」
確かに情報が少なすぎる。
プロイセンの宰相の思惑と、現場の指揮官の猪突猛進の戦いぶりと、伯林にいた――後にユートラント半島に赴いて直接作戦を展開させた――総参謀長の地理と兵站を充分に分析した戦術とが嚙み合っていなかったらしいのは、倫敦での休戦交渉が妥結しなかったことやドイツ連邦議会から漏れてくる伝聞から推測できる。
しかし、それでも勝った。軍人としては、勝因を知りたい。そしてそれを血肉としたい。リース大佐、そして俺の憤りと焦りは共通している。
運命の神は女だから、慎重である者より果敢である若者の友であると述べたのはマキアベッリであったか。我が主君ゲオルク2世は四十三歳、ハノーファー国王ゲオルク5世は四十五歳、オーストリア帝国の皇帝は三十四歳、若者とは言えない年齢かも知れないが、老人ではない。プロイセン国王ヴィルヘルムは六十七歳、宰相は四十九歳、総参謀長は六十四歳。この大ドイツにおいてもっとも果敢な者はプロイセンにいたのであろうか。