三
引っ越しの翌日、七月二十一日は日曜日。窓を開けると街の喧騒が夏の風と共に流れ込んでくる。気分の良い晴だ。今日は『ティユル』に行ってみよう。店は休み。新しい住まいを知らせる大切な用事がある。上手くいけば、リュクサンブール公園への散策にベルナデットを誘えるかも知れない。
そうと決めれば気が急く。さっさと身支度を済ませて、出掛けることにした。
「帰宅の時間は未定です」
食事の提供は本来朝食のみなのだから声を掛ける必要もないのだが、行き会ったので、挨拶がてら断りを入れた。
「行ってらっしゃい」
マダム・メイエは仕事が捗るだろう。
シャン゠ゼリゼ大通りからコリゼ通りに入ると、店の前で梯子を抱えるマリー゠アンヌとルイーズがいた。何事かと思い、歩みを早めて近付いた。
「ご機嫌よう、皆さん。どうしたんですか?」
「まあ、ご機嫌よう、ムシュウ。屋根に猫がいるって、娘が騒いでいるんです」
「お早うございます、ムシュウ・アレティン」
そそくさと挨拶を済ませると、ルイーズは梯子を据えて、屋根を見上げた。一緒になって見上げてみると、確かに白い猫が一匹いる。怯えているのか、縮こまった様子だ。
小娘は靴を放り出して、自分から梯子を登り出した。おいおい、スカートだぞ。
梯子を登りきって屋根に慎重に足を掛け、白い小さな猫に手を伸ばす。白い猫は警戒して威嚇の姿勢を取った。だが、鳴き声は聞こえない。
怖くないよ、助けに来たのよ、と何度もルイーズは声を掛け、やっと猫を寄せ、抱きとった。
よっと、とじゃじゃ馬らしい掛け声で、梯子に腰掛ける。両手に猫を抱えてどうやって降りる気だ。小娘は自分の首にうまく猫を乗せようとしているが、猫はどうも怯えているのか、警戒しているのか柔軟に小娘に乗ってくれない。
俺は梯子を登った。
小娘は、なんでしょうと、俺を見下ろした。
俺は自分の左肩を叩いた。
「座れ」
「は?」
「座れと言っている」
「あら、平気ですわ」
「婦人を高い所に登らせて、黙って見物していろというのか」
「まあ、素敵。お姫様になったみたい」
小娘の嬌声は無視して、左肩に子猫を抱いた小娘を座らせて、梯子を降りた。
「有難うございます、お兄さん」
何時からムシュウからお兄さんになったのか、小娘の茶目っ気は面白い。
ルイーズの抱える猫の毛色は白、そして両目が青かった。
「良かったねえ、可哀想にママンとはぐれたの? カラスか犬に追い掛けられたの?」
しきりに語り掛けるが、猫は無反応だ。野良猫は慣れない人に対してこんなものかと思ったが、やっぱり耳が聞こえないのかしら、と小娘が呟いた。
「そうなのか?」
「白い毛に、青い目の猫は聴力がなかったり、弱かったりすることが多いんですって」
「なかなか物知りだな、私は初めて聞いた」
マリー・ルイーズはふと俺を見上げた。
「猫の好きな人に聞いたんです。
不思議ですよね」
にこにことしていると、母親が言ってきた。
「ルイーズ、屋根に居座っているから猫を捕まえたのよ。家では飼えませんよ。お客様の中には動物が嫌いな方がいらっしゃるし、品物を汚されたり、毛を付けられたりしたら商売にならないわ」
「このまま離してやるしかないのかしら?」
誰に向かってか、白い猫は蛙の潰れたような声で、ぎゃあと一声鳴いた。
参考文献
『遺伝子が解く! 愛と性の「なぜ」』 竹内久美子 文藝春秋社