一
家主のノイマン氏のサインが採れたと、巴里六区の寄宿先の契約書の俺宛ての分の書類が届いた。思ったよりも早い。郵便の早さもそうだが、ローンフェルト氏からの口添えのお陰か、ノイマン氏も書類を読んですぐに署名してくれたらしい。有難いことだ。
こちらは大使館の窮屈な部屋に待機している暮らしだから、荷物をまとめるのは簡単だ。あちらに家具やら何やら備え付けなのだから、面倒がない。
明日にでも引っ越したいとマダム・メイエに連絡して、いつでもどうぞと返答をもらった。
そうしたら当日雨だ。大した距離でも、荷物でもないのだが、雨の強さと泥はねが嫌さで、延期を申し出た。(泥はねの心配の中、連絡しに行ってくれたヤンセン曹長には悪かった)
翌日は雨が上がり、曇だ。振っていないだけましと、荷物を馬車に積み込んだ。
暇乞いは事前にしているのだが、今日引き払うのだからと、改めて、ゴルツ大使とシュタインベルガー大佐たちに挨拶に行った。
勝手な振る舞いをしてくれるなよと渋い顔をしている大佐と対照的に、ゴルツ大使はお茶に砂糖は入れるのかと確認する程度の気軽さだ。
「フランクフルトの商人の持ち家だから、貴官は無茶や羽目の外し過ぎはしまい。騒ぎを起こしたら、それこそ目を付けられる」
「謹厳実直でいれば危険はない。巴里娘と遊ぶのはほどほどにしておけば心配ない」
「はい、心掛けておきます」
大佐は返事ばかりはいい、と言いたげだ。ハウスマン少佐は苦笑しつつ見守っている。一言言わなければ気が済まない上司であるのは承知だが、これがいつまでも子ども扱いの母親みたいな言い草というやつだ。俺は真に受けくよくよと気にする性格ではない。
口うるさく干渉し、注意するのはシュタインベルガー大佐一人に任せているとばかり、寄宿先は便利そうか、家政婦や賄いがどれだけ世話してくれるのか、カルチェ・ラタンは賑やかな場所だとか、口々に引っ越し先について言ってきてくれる。
ゴルツ大使が言ってきた。
「アレティン大尉はグイドやあの屋敷の女主人に気に入られたようだ。貴官なら招待が無くても、いつでも遊びに来てくれていいと伝えてくれと頼まれた。
確かに伝えたぞ。いつぞやの女性は引っ越しするそうだから、身軽に行けるだろう」
ほほう、と歓声が上がった。
「それはそれは……、有難うございます。しかし、こちらはしがない文無しの士官ですよ。ああいった女性の相手をするのに経費は出ないでしょう」
ああ、出ないぞとハウスマン少佐がすかさず言った。大使は苦笑気味に続けた。
「心配しなくていい、あちらは貴官を気に入ったと言っている。金を払わずとも、食事や話し相手で顔をたまに出してくれれば、それでいいそうだ」
どこまで本気で言ってくれているのか、疑わしいな。ヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵はラ・パイーヴァに同調してのお愛想であろうし、あの女主人、吝嗇と退屈は悪徳だと信じているようだ。真面目に受け取れない。
「たまに、あちらに顔を忘れられない程度に伺うようにします」
「忘れられない体験をさせてくれるかも知れんぞ」
誰かが茶々を入れるのは、ラ・パイーヴァの現在の姿を知らず、往年の高級娼婦の名前に惑わされているからだ。親しくしたい女性がほかにいる俺にとっては、色気を出されてもとぼけて誤魔化すしかない。そもそも俺には魅力的な女性に翻弄されたいとか、恋の駆け引きを楽しんでみたい、粋人の気持ちが理解できない。
それとも玄人が素人をからかってみたい気紛れか。
こちらの心が動かさなければどうにでもなる。俺にラ・パイーヴァに預けるような心はない。
「招待客に気になる人物がいれば、馳せ参じるだろうよ」
「それは大使も同じでしょう?」
「確かに」
互いに、口元だけの笑顔になった。




