十二
「迷惑なんてとんでもない。こちらは光栄の限りです」
愛想を見せてみても、まだ表情が硬い。
「私はプロイセンから来ました。巴里に来て日が浅いのです。巴里について何か教えてくださいますか?」
「お教えできるほどわたしは外出しませんので、名物や名所のお話はできません。それにわたし、近々巴里を離れるんです」
壁を作られたかな?
「事情があって南へ住まいを移すものですから、その前に巴里の華やかな通りを散策してみようと、今日出掛けてみたんです」
「それは残念ですね」
「ええ、あまり出歩かないといっても生まれ育った街です。離れるとなると寂しいですわ。引越ししたら、巴里は花の都でしょうと、他人様から訊かれても何も答えられないのも悔しいので、名残りにブールヴァールの見物です」
近日の転居が嘘でなければ、巴里の華やかな高級娼婦の屋敷を見物するのは、自慢のタネになるかも知れない。良識派が眉を顰めようとも、高級娼婦は様々な男性を虜にしたと噂の主であるのには違いない。
「私はプロイセン大使館で勤めている武官なんです。仕事の付き合いで方々からのお招きを受けるのですが、とあるご婦人から、次に自分の屋敷に来る時は是非巴里の女性を同伴してきなさいと言われていて困っているのです。何しろこちらに来たばかりで、親しい女性がいないのですよ」
「奥様は?」
「妻帯しているように見えますか?」
どちらの手の薬指に結婚指輪をするか国や地方によって違うので、両手を上げてみせた。
「貴女のお引越しが忙しくなければ、一度一緒に来てみませんか? 夜ではなく、昼間の訪問であれば、念入りな準備は必要なでしょうし、伺うのも短時間で済むでしょう」
女性は興味を抱いたようだ。
「貴方が仰言るのはどちらのお宅なのですか?」
「シャン゠ゼリゼ大通りにあるラ・パイーヴァの屋敷です。私に巴里の女性を連れてこいと言っているのは、プロイセンのヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵が後援をしている女性です」
まあ、と、彼の女は口をOの字に開いた。ラ・パイーヴァが何者か知っている、素人、堅気の女性なら当然の反応だろう。
「わたしどんな方か知らないのですが、その、プロイセンの伯爵の奥様ではないのですか?」
拍子抜けしてしまった。いやいや、市井のご婦人は玄人筋の女性を一切知らないとしておこう。
「貴女がご存知ないのも当たり前なのでしょうが、答えづらいですね。都会にありがちな職業と言うのですか? 男性を楽しませるのを仕事にしている女性です。それも非常にお金の掛かる女性。今は、ヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵のお世話を受けて、奥方も同然で巴里で暮らしています。
贅を凝らしたお屋敷で、宮殿とはこのような場所なのかと目を見張るばかりでした。次に来る時は女性同伴でと条件を付けられているので、こうして貴女と同席して、これは私に貴女を連れていくようにと機会が与えられたのだと思ったのです」
彼の女は首を傾げて考え込んだ。好奇心が膨らんできているらしい。餌場を見付けた小鳩のように顔付きが変わってきている。
「いい機会なのかは判りません。でも面白そうです。
気付いたのですが、まだお名前を聞いていません」
「これは失礼。私はオスカー・フォン・アレティン大尉と申します」
「わたしはレオニー・レオンと申します。
わたしの亡き父はフランス軍で砲兵将校でした。今は母と妹と甥とで暮らしています。母方の親戚のいる所に今度行くんです」
名乗り合って、レオン嬢は俺の言う通り、昼間、お茶会程度ならラ・パイーヴァの屋敷に行ってみてもいいと返事をした。そんなに豪華な場所なら行ってこの目で見てみたいと正直だ。
訪問の日時は何時がいいか、確認してみようと、互いの連絡先を交換した。
とりあえずは堅気で後腐れのなさそうな女性と知り合えて、幸運だった。ここでの払いのほか、給仕への心付けを過分なくらい渡してやった。
参考
『図説 指輪の文化史』 浜本隆志 河出書房新社