三
ローンフェルト氏が家主から委任を受けているからと、ここへの寄宿の契約の書類を作る取り運びとなった。大使館もここも備え付けの家具があり、世話をしてくれる人がいる。身の回りの品を持って来ればすぐにでも引っ越しができるが、一応は家主のノイマン氏が契約書を確認してからだ。早ければ今月の末には越して来れるだろう。
「フランクフルトのノイマンさんから了承の連絡が来たら、こちらに早速お世話になります」
「気に入っていただけて、さいわいです。ほかの階にもお住いの方はいますが、空室があると管理を任されている者としては不安があります。ご紹介のある方が来てくださるのは、こちらとしても嬉しいです」
独り者の大使館職員が宿舎暮らしが窮屈で契約した、としかローンフェルト氏もメイエ夫人も考えていないだろう。俺も迷惑を掛けないよう、努めなければならない。下手に後を付けらないようにして(避けられないかも知れないが)、情報提供者や同業者に会うのには場所を選ばなくてはならない。
善良な市民に厄介事は知らせなくていいし、俺に何かあっても不幸な巡り合わせだったと信じてくれればいい。
メイエ夫人の淹れてくれたコーヒーで一服し、無事に新たな起居の場の契約が成立したのを三人で祝った。
グランドホテルに一度ローンフェルト氏と寄り、ご一家と挨拶してから大使館へ戻った。
一通りの話を聞いて、シュタインベルガー大佐は肯いた。
「一般人に混じらなければできない仕事もあろう。貴官が学生や少壮の新聞記者のような恰好をしてカルチェ・ラタンを歩くのを一目見てみたいな」
珍しく軽口だ。
「その際は誂えた服ではなくて、古着屋で買った服の方が無難だぞ。貴官はわざと着崩した姿をしてみる経験がなさそうだ。
皮肉ではない。姿勢が良すぎて、軍人だとすぐにばれないか心配してやっている」
「カルチェ・ラタンのカフェで観察して、真似できるようにします」
大佐は同情交じりの笑いを見せた。大佐のご懸念有難い。しかし、こちらも短期間だが化けることは学んでいる。実地を試す機会がどれくらい出てくるかは知らないが、コメディ゠フランセーズに入門する気で演じてみよう。
総参謀本部へも引っ越しの予定や場所について電報を打った。
そこへヤンセン曹長からゴルツ大使が呼んでいると報せてきた。大使にも報告が必要だったな。
「拝命した。すぐに部屋に伺うと伝えてくれ」
曹長は復唱して、すぐに下がった。軍隊式の生活は堅苦しくも、ずっと過してきた長年の習慣だ。故郷の味のように染みついている。
そこから離れるのに、まだ現実味が薄い。
華やかな街にいても、染まらぬ自分は軍人の所為なのか、性格からかと不思議だ。安逸に流れるのはたやすい。いっそ流されてしまおうか。
下らぬことを思いながら、ゴルツ大使の部屋に向かった。ノックすると、すぐに入室を促す答えが来た。
「失礼します、大使」
大使は俺に席に着くように指示した。
「その前に小官から大使に報告があります」
「よかろう、まず貴官の報告から聞こう」
俺は寄宿先が決まり、家主との契約の確認ができ次第引っ越す旨を伝えた。
「ほう、カルチェ・ラタンか。面白い場所を選んだな」