二
カフェ・プロコプに入るのは初めてだ。作りは古いが、店内は明るく心地良い。
「いらっしゃいませ」
給仕が出てきて、俺を一見か、身なりからしてどのような懐具合の客かとさっと見て取った。
「一服しながらのんびりと新聞を読もうと思っているのだが、テラスだと眩しいだろうか、中の方がいいだろうか」
「テラスで読物をなさるのには眩しいかも知れませんね」
「では中の席にしよう」
「こちらへどうぞ」
給仕が案内してくれた席に着き、コーヒーを注文した。『フィガロ』ともう一紙適当に選んで拡げた。
記事の伝達する内容は同じようなものだが、論調が少しずつ違う。判りやすく、そしてやはり記者の色が出ており、読み手によってはそれに染まってしまうだろうなと、文章をたどる。
この店は、大革命の前後には政治ビラが置かれ、多くの思想家や革命家が顧客だった歴史がある。今でもジャーナリストや世相に敏感な法律家が出入りし、侃々諤々やり合っているという。労働者ではない、しかし、上流でもない知識階級の意見はどんなものだろうかと、興味がある。
「真面目くさって新聞をお読みのようだが、貴方は意見があるかね?」
と、男が声を掛けてきた。
「メダイユの授与の件ですか?」
と頭を上げて驚いた。酷い姿をしている。ボロを纏っているのではない。きちんとした誂えのシャツにジレ、ズボンに上着で、擦り切れているほど古くはない。しかし、着付け方が悪く、襟が曲がって、ブラシを掛けていないのか、パン屑らしき細かいゴミが胸元に付いている。スープをこぼしたのか、顎の髭部分が汚れている。髪も櫛を通していないような有様だ。こいつは家を出掛ける前に鏡を見ないのか? この店の装飾にも鏡が使われているのだから、少しは我が身を見たらいい。いや、着こなしや小物の組み合わせに凝る伊達男を鼻で笑う、弊衣破帽こそ男らしいと気取る奴は軍隊にもいた。巴里の上流紳士を俗物と看做して対抗する、反骨の類いか。
不潔な恰好にばかり目が行って、やっと異相に気が付いた。この男、右の目の瞼が半ば閉じ、そこから覗く右目は白濁している。右目の視力が悪いのか、見えないのかのどちらかだろう。
一通りの観察を終えて俺は、突然の指名に怯えたように当たり障りない返答をした。
「今回初めて参加した日本は漆塗りの食器や養蚕でメダイユを受賞したそうですね。小さな公子が来仏している」
隻眼の男はあからさまに期待外れの様子を見せた。
「いいや、万国博覧会以外のニュースであんたの意見を聞きたいんだ」
初対面で二言目に“tu”か。
「恐れ入りますが、どちら様で?」
男は指摘されて、破顔した。
「ああ、済まん。あんた、新顔だな。俺はここの常連なんだ。この店の客にはついつい顔見知りのつもりなってしまうんだ。
俺はレオン・ガンベッタ、弁護士だ」
思わず目を見開いた。弁護士だって? 法曹界の人間なら、面会する依頼者に信任されるかは眼目の一つだろうに、こんなに身だしなみが汚くて大丈夫なのか? それにいきなり「あんた」呼ばわりされるほど、俺は格下に見えたのか。年齢は同じくらいか、相手の方が少し上のようだ。軍人の俺は体格的にガリア人に劣らないし、それほど貧相な服を着た覚えはない。
不機嫌よりも、人見知りの容子を出していると、男は俺を和ませようとしているのか、また喋り出した。
「あんたの言葉の感じから巴里っ子ではない、ライン川の向こうから来たのか?」
言葉の抑揚を聞き取っているのだから誤魔化さない。
「ええ、フランクフルトの向こうから」
嘘は吐いていない。
参考文献
『60戯画 世紀末パリ人物図鑑』 鹿島茂 中公文庫
レオン・ガンベッタは隻眼です。『60戯画 世紀末パリ人物図鑑』では右目が白濁した肖像(ポンチ絵)が載せられています。また、フランス語版、英語版のウィキペディアでもレオン・ガンベッタは少年期に事故で右目を失明とありますので、それに従い描写しました。
レオン・ガンベッタは第三共和政で活躍します。第二帝政時代で、帝政に反対する勢力があると登場させました。ここ以外の章で出す予定は、今のところありません。