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君影草  作者: 惠美子
第三章 湖畔での休暇
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「子爵家の令嬢を住み込みで働かせるなど余程の王侯でなければできません」

「わたしは貴族の令嬢の枠から外れた真似を既にしでかしているのですよ」

「働くといっても男とて厳しいのです。家庭外で活動する女性は少ないのですから、厳しさは増すでしょう」

「ええ、実際に目にしてきました」

 ポーランドの伯爵とやらの教育の成果か。

「私の義理の伯母を見習うのは結構ですが、己の才覚で世を渡るとなれば、悪人になる必要も出てきます」

「はい」

「他人を傷つけても、生き残る、できますか?」

 アグラーヤは黙りこくった。

「もし零落したブルジョワ、或は牧師の娘と、子爵家から出た貴女がある貴族の家の子どもの家庭教師の候補となったとします。それぞれ推薦状を持ってきますが、気安く使えそうな方を選ぶかも知れないし、育ちの良さを買って貴女を選ぶかも知れない。雇い主の気持ち次第です。

 他の候補を蹴落とすために、雇い主に自分の能力を売りつけようと宣伝しなければならない場もあるでしょうし、雇われても使用人のように扱われる可能性もあります。平気でいられますか。

 貴女だって家庭教師について学んだと思いますが、お家でどのように遇していましたか? 尊敬していましたか?」

「我が家ではきちんと家族同様に過ごさせ、わたしは尊敬していました」

 強気の口調に多少の嘘が混じっているようだ。アグラーヤはともかく、アデライーダは尊敬の態度を見せなかっただろう。

「ご自身の将来です。焦らずお考えなさい」

「ええ」

 喋り過ぎた。俺はビールで喉を潤した。

 フルーツタルトが出される頃には、言葉が少なくなった。キルシュの風味が美味かった。キルシュだけをいただきたいくらいだが、連れを思えばそれもできかねる。侍女はタルトをフォークで上手く食べられないのか、背を向けて、ぱくついている。俺は面白いのだが、アグラーヤは目を眇めている。呆れたようなアグラーヤと目が合った。

「成金の家に雇われた時にそんな顔をしてはいけませんよ」

「気を付けます」

 実に神妙な顔つきになった。

「アレティンさまは士官学校から軍に進まれて、ご苦労やお悩みはございませんの? 希望の仕事に邁進しておられますの?」

 少しの間考え、抽象的に説明した。

「ええ、己の決めた軍人の仕事に満足しています。ただ私も愚かで迷いのある人間です。目標の山の頂上を目指して上っていくのに、道に迷ったり、疲れて動けなくなったりがありました。そして頂上に着いたと思ったら、遙か上にまた高い峰が見える。

 高い峰を目指さなければなりません」


 食事が終わったので、宿に戻った。アグラーヤはもう少し話がしたいと部屋についてきた。子兎のような侍女が一緒なのだし、と軽い気分で部屋に招き入れた。

 ローテーブルを挟んで差し向いに座り、アグラーヤの後ろに侍女が控えた。

「アレティンさまにも色々とお悩みがあるように見受けられましたので、わたしの話を聞いてくださったように、お話くだされば少しはお気が軽くなるのではと浅薄ながら考えました」

「フロイライン・ハーゼルブルグのお心遣いは有難い。お気持ちだけお受けします」

 アグラーヤは残念そうに眉を動かした。

「そうですよね。お仕事に関するお悩みでしたら、わたしごときに話せませんものね」

 アグラーヤは侍女を振り返り、目配せした。

「では、後でお迎えに参ります」

 侍女は一礼して部屋を出ていった。俺が立とうとするのを、アグラーヤが留めた。

「フロイライン、ふざけないでください!」

「わたしは至って真面目です」

「いくらなんでも貴女は既婚の女性ではないのですよ」

 いや、既婚だからよいというものではないが、若い男の部屋で二人きりになっていい訳がない。

「あなたを取って喰おうとはしませんわ」

「それは男の台詞です。だいたい俺が貴女を取って喰おうとしたらどうするのですか」

「構いませんわ」

 たかだかビール一杯の酔いの所為にしたくなかった。だが、俺はアグラーヤの二の腕を掴み、引き寄せた。

「怖くないのですか?」

「あなたの方が怖がっているみたいですよ」

 俺はアグラーヤの唇を塞いだ。

 長い接吻の後、俺はアグラーヤを突き放した。彼の女はそのまま後ろに倒れ込むように椅子にもたれた。

「何故です」

「あなたはお心を開いて語ろうとしない方ですから。あなたに自分の考えを話して心が救われたような気持ちです。わたしもあなたのために何かできないかと思ったのです」

 恐ろしく真剣で、泣けてくるほど滑稽だ。

「貴女は娼婦ではないのですよ。いや、娼婦は行為に対して対価を受け取る。俺の為にと綺麗事を口にするのは傲慢です!」

 アグラーヤは、はっとしたように我が身を抱える。

「俺は貴女の自立したいとの考えに敬意を抱きますし、今までのことを気にせず生きて欲しいと願います。それは貴女に寄り添いたいからではない。

 一緒にフェリシア伯母の言葉を授けられた同士と想うからだ」

 俺は彼の女から離れて壁際に行き、拳で壁を打った。

「高い峰を目指したい。しかし、道には一面霧が掛かりどう進んだらよいか手探りだ。それを一時(いっとき)忘れたくて、休暇を過しに来た。

 カレンブルク、プロイセン、ハノーファー、オーストリア……、進まない軍備……。

 思い出させないでくれ」

 いつの間にか、アグラーヤが背後に来ていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい。お詫びします」

「昨晩言ったように、俺は結婚する気はないし、母のような貴族の女性は信用しない。だからもう近付かないでくれ」

「許してはくださらないのね?」

「許す? 貴女は怒っていないのですか?」

「傲慢を指摘してくださったのです。怒っていません」

「無礼をしたのは俺ですよ」

「侍女を下がらせたのはわたしです」

 見詰め合い、どちらともなく手を伸ばした。

「ひとときだけでも苦しみを忘れさせてくれますか?」

「ええ、そしてわたしには生きる勇気をください」

 それ以上言葉は必要なかった。


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